【手記】アジア太平洋戦争と「消された巨大地震」  森 直樹

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アジア太平洋戦争と「消された巨大地震」      森 直樹

 2011年3月11日、14時過ぎ。「ゆっくり横揺れ」が始まり、直ぐに自宅マンションの玄関ドアを開けた。
6階建て古い建物の1階なので、脱出用の「通常装置」だ。
「東北地方太平洋沖地震」が発生。「ジリジリ」と横揺れが強まっていった。3分ほどのところで、思わず「日本沈没?!」と口走ってしまった。横揺れはまだ続く、、、、。
その瞬間、1944年12月、45年1月、終戦後の46年12月の、「大地震の記憶」がまざまざとよみがえった。

 この三地震、とりわけ、前の二つは、終戦間際とも言える時期に発生した巨大地震で被害は甚大だった。だが当時は戦時下。「戦時の情報統制」(軍機保護法)により、その被害の実相が、被災地域以外で語られることは、皆無に等しく、救援の手はほとんど差し伸べられなかった。本土空襲がはじまり、国民の戦意喪失を恐れた軍部は、「知らせず」ということで、この局面を乗り切ろう、とした。これらの地震の記憶(正確には、その断片)を交え、当時を振り返ってみたい。

 わたしは、たまたま、縁故疎開(東京渋谷区から、父の郷里)で「岐阜県岐阜市近郊(現在の「各務ヶ原(かがみがはら)市」)に居り、被災した。当時、3歳になったばかりである。父はこの時出征、母と弟(1歳前)の三人家族であった。

★東南海地震(1944.12.7。13:35発生。マグニチュード8.0)
 疎開先では、ご近所を含め、建物被害は多少生じた(物置が一部壊れたなど)ものの、人的被害は、皆無に近かったらしい。横揺れが長く続いた記憶は微かにある。そして、わたし個人は、昼食後のおやつの「乾燥バナナ」(当時バナナは貴重品。この燻製=乾燥バナナが好まれた)を、取りにもどり、そばにあった「軽便カミソリ」で、「左手人差し指」をしたたかに切ってしまった。今も、3㌢の傷が残っている。血まみれになりながらも、バナナを握りしめていた、という。
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 地震の全体像を、以下、ご紹介する。
志摩半島沖が震源。静岡県、愛知県、三重県、和歌山県などで大きな被害。特に、愛知県下の軍需工場では、勤労動員による若者(中学生ら)の圧死が多かった、といわれる。にわか造りの工場(たとえば、「梁「柱」を省略したもろい構造)での犠牲者である。
翌日は、「12.8」。朝刊各紙は、軍服姿の天皇の写真を大きく掲げ、「一億特攻 大東亜戦争四年へ」(朝日新聞・一面)など、「開戦3年」の節目を「粛々と」報じた。
「東南海地震」の記事は小さく、紙面の隅においやられた。一方、アメリカでは、ハワイや西海岸に津波が到達していたこともあり、大きく地震のことを報道していた。「日本国民だけが事実を知らされず」のままであった。三重県尾鷲の津波高は9メートルを観測した、という。死者998人(大半が津波や沿岸部)、家屋全壊2万6130戸、家屋半壊4万6950戸、家屋流出3059戸。ちなみに、津波による死者数などは、資料により異なっており、「戦時下の異状」をここでも示している、といえる。

★「三河地震」(1945.1.13 3:38発生。 マグニチュード6.8)
 先の「東南海地震」の余震が相次ぐ中、「活断層による内陸直下地震=三河地震」が発生した。寝込みを襲われた。切れ切れながら、わたしの記憶は鮮明。「布団ごと 三寸はねて土間に落つ」であり、「雨戸ずれ 戸外出られず また余震」という場面。表からは大家さんが「モリサーン、デナサイ!」と声をかけて下さるが、出られない。少ししてやっと脱出。近くの竹林に逃げ込む。余震の合間をみて、布団類を竹林に持ち込み、夜を明かした。怖さと寒さ。睡魔に襲われつつ、余震におびえていたようだ。
さいわい、家のなかはメチャクチャだったが、怪我などはまぬかれた。この型の地震が、すぐご近所でも被害に差があることを知ったのは、後年であった。なお、わたし自身の記憶は薄いが、のちに母から聞いた話をひとつ。この地震の10日前、1月3日に、名古屋市への大空襲があり、しばしば「空襲警報」が発令された。この時は、疎開先の真上でB29爆撃機から「焼夷弾」が多数落とされ、風に乗って、「岐阜市内」へと落下していった、という。
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「東南海地震」にくらべ、そのエネルギーは40分の一、という三河地震。その被害を概観してみる。直下型なので、突然、建物が倒壊し、下敷きになった場合が目立った、という。なかでも犠牲が多かったのが、集団疎開児童で「寺の本堂」内で就寝中に圧死した、という。「本瓦」の重さに、耐えられなかったのだ。そして、「空襲」を避けながら、「集団荼毘」が執行された、という実話も残っている。
 甚大な被害にもかかわらず、新聞報道は、「東南海地震」より小さい扱いであった、という。死者2306名。全壊住宅7221戸、半壊住宅1万6555戸。津波被害はあまりなかったという。この地震の死者数も、資料によって異なっている。
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<付記>
個人的には体験しなかったが、1948年の「鳥取地震」の被害も、甚大であった。
「鳥取地震」(1948.9.10 17:37発生。マグニチュード7.4)鳥取市などを中心に、死者1083名、全壊家屋7485戸、半壊家屋6158戸であったという。
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★「南海地震」(1946.12.21 4:19発生。マグニチュード8.0)
和歌山県串本町の南約40㎞の海底付近を震源地とする巨大地震。以下、人的被害のみ、当時の内務省発表資料から抜粋する。死者1354名。負傷者3807名、行方不明者113名、被災者23万268名。
戦後復興期の大災害であったが、戦争末期の二つの地震災害との決定的な違いは、いち早く、被害が伝えられ、鉄道、港湾のそれぞれの被害も大きかったが、すぐに救援の手が差し伸べられた、という点であった。

一方、戦時中に襲来した「台風」「暴風雨」による被害は、1941.12.8の太平洋戦争開始時からの「気象情報の報道統制」により、常に「不意打ち」であったことを付け加えたい。「防災」より「軍事」が優先されたことによるツケは、すべて国民が背負うことになったのである。国民に「天気予報」が公開されなかったのは、1941.12.8から1945.8.21までの3年8ヵ月余りであった。手元の資料によれば、大きな台風が3回、集中豪雨が1回、死者1686名以上、行方不明470名以上、の大きな被害であった。なお、「以上」の中身は、43年夏の集中豪雨によるもの。「多数」としか、資料に示されていないのだ。

[最後にひとこと]当時「軍国乳幼児」のわたしは、主体的に戦争に参加したわけではない。だが、一人の人間としての「戦争責任」は、ある。還暦を過ぎてから、その気持ちは強まりつつある。
戦後70年のいま、「戦争立法」を急ぎ、「海外派兵」を追求する安倍政権。
わたしは「戦争反対」を表明する。「平和憲法」を守り、「平和国家」の建設に関わり続けたい。

[参考資料]*日本災害史事典1868-2009.編集:日外アソシエーツ編集部.発行:日外アソシエーツ㈱. *日本の津波災害 伊藤和明著.岩波ジュニア新書701.㈱岩波書店発行.

戦前教育を省みる

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戦前教育を省みる

初見千恵子

   はじめに
 昭和初期生まれ、私と同年輩の著名な方の、「私は敗戦まで軍国少年でした」と述懐される言葉に接すると、かつての軍国少女は思わず「ああ、やっぱり」と頷いてしまう。教育の持つ力の大きさを再確認させられるのだ。私の世代が小学校に入学したのは、大正デモクラシーの時代が終わり、国土拡張のためアジア侵攻をもくろむ軍部の力が急速に拡大されつつあった一九三五年(昭和一〇年)の春である。その頃の教育環境を思い出すと、何気ない日常行動の中から人格が形成され、強固な思想が植えつけられていくことが身に沁みてわかってくる。

   奉安殿
 当時各学校には一坪ほどの小さい建物ながら、堅固なコンクリート造りの奉安殿なるものがあった。内部には今上天皇、皇后の「御真影」と教育勅語が納められていた。奉安殿は校舎からかなり離れた校庭の隅にありその一画は常緑樹に囲まれていた。地震、火事等の災害から守れるように、そして荘厳な雰囲気を醸し出すようにという配慮があったのだろう。同じような規模の学校はどこも似たような奉安殿造りだったようである。
 正面の扉の上には菊の紋が金色に輝いている。天皇家の紋の菊の花びらは十六枚なので”十六の菊のご紋”と称された。図画の時間で菊を写生する時に花弁を十六枚にしてはならなかった。数を同じにしては恐れ多いというのである。紋章までが特別に神聖なものとして教えこまれた。些細なことで不敬罪に問われる時代であった。重厚な扉には、頑丈な閂(かんぬき)がかけられている。奉安殿の御真影が傷ついたり焼けたりすれば、校長は自決しなければならないのだと聞いていた。
 敗戦前の激しい空襲の中で、奉安殿の御真影はどんな運命を辿ったのだろうかと思いを馳せる。天皇の写真は命をかけて守らなければならないという理不尽な掟を、疑いもせずに受け入れていた私達国民、庶民の命は一枚の写真より軽かった。
 生徒達は登下校の際、校門で直立不動、奉安殿の方角に向かって最敬礼する規則であった。

   式典
 一月一日の四方拝(元旦の宮廷行事)、二月十一日紀元節(神武天皇即位の日)、四月二十九日天長節(天皇誕生日)、十一月三日(明治節)を四大節の祝日と称した。また春季皇霊祭(春分の日)、秋季皇霊祭(秋分の日)、十月十七日の神嘗祭、十一月二十三日の新嘗祭等の祭日を加え,祝祭日はすべて皇室と関連づけられていた。祭日は休校となるが、四大節の祝日は式典が執り行われて全校生徒が登校した。ちなみに皇后誕生日の三月六日の地久節は祭日並で女学校のみ式典が行われた。
 会場の雨天体操場(体育館)には紫の幕が張り巡らされ日の丸の旗が飾られる。正面の高い位置に奉安殿から運ばれた天皇皇后の御真影が鎮座していて、式の始めにその写真を覆っていたカーテンが引かれる。先生方は正装で立ち並び、生徒達もよそゆきの服装で参列した。
 奉安殿から取り出された教育勅語が黒塗りの角盆の上に載せられ、白手袋をはめた教頭が捧げ持って式典会場にしずしずと運んでくる。校長は教頭から教育勅語をうやうやしく受け取りおもむろに奉読を始める。一語でも読み間違えたら降格されるという噂であった。生徒達はかしこまって頭を垂れ、私語は勿論身動きさえも許されない。緊張で息のつまる長い時間だった。式後に配られる紅白の菓子が楽しみで、子供達はじっと我慢していたのかもしれない。女学校時代の友人と話し合うと、どこの学校でも誰もが似たり寄ったりの経験をしている。式典も全国一律教育の一環だったのであろう。

   訓話
 校長訓話の骨子はいつも決まっていた。
「我が大日本帝国は万世一系の天皇陛下が治め給う国であります。天皇陛下は天照大神の子孫で現人神(あらひとがみ)であらせられます。日本人は天皇陛下の赤子(せきし)として生まれてきたのです。天皇陛下のために働き、天皇陛下のために命を捧げなければなりません。天皇陛下に忠義を尽くすために一生懸命勉強し、体を鍛えて立派な日本人になりなさい。それが一番親孝行でもあるのです。」当時、天皇とは人の姿をして現世に現れる神であり、国民はその掌中にある子供と教えられていた。
 くり返される校長の言葉は小さなやわかい心に沁みこんでいく。”そうか、私は天皇陛下のために生まれたんだ。天皇陛下万歳と言って喜んで死ぬんだな。天皇陛下万歳のあと、おかあさんと呼びたいな、それはいけないのかなあ”天皇信仰は小学校低学年から胸に刻み込まれていった。
 小学校四年生の日の先生との会話を思い出すと今でも複雑な思いにとらわれる。
「君が代の意味を説明しなさい」
「ハイ、天皇陛下の治めるこの世の中は、千年も八千年も、小さな石が大きな岩となって苔が生えるほど長く栄えます」
「よろしい、よくできました」
 天皇制を讃える歌として襟を正して君が代を歌った子供達は、徹底した皇民教育の中で”天皇教”の強固な信者となっていったのである。
 現在では歌詞の意味を問われることも考えることもなく式の歌として唱されているらしい「君が代」、その由来を古典研究者から教えられた。
 古今和歌集巻七の賀歌の巻頭に、題しらず、よみ人しらず、「わが君は 千代に八千代に……」の歌の上句、「わが君は」を「君が代は」に替えて、明治政府が国歌に定めたとのことである。「わが君」は愛する人を指しているのではないだろうか。「君が代」についての議論は多々あるが、わが君と詠んだ作者は思わぬなりゆきに戸惑っていることであろう。

   朝礼
 雨天の日以外は毎朝校庭で朝礼が行われていた。千人を越える全校生徒が整列し、先ず皇居のある東京の方角を向いて姿勢を正す。「宮城遙拝」の号令と共に最敬礼をしてから朝礼台に向き直り校長の訓示を聞く。列を乱したり私語をしたりすると朝礼を取りしきる教師の怒号がとぶ。高等科の生徒が不真面目な態度を咎められてビンタを受けたりすると、遠く離れた列の出来事であっても私は体が硬直してしまった。訓示、体操、諸注意が終わって一列縦隊まるで軍隊のように規則正しい足どりで各教室へ向かうのだった。

   教室
 教室は前と後ろに引戸の出入口があった。前の入口は先生専用で、生徒は後ろの入口から出入りするように躾けられた。生徒は掃除当番の時以外、前の入口を使ってはならなかった。職員室への出入りにも姿勢を正したものである。長幼、上下、厳しい序列によって無意識のうちに上位の者に従わせる習慣を身につけさせられた。
 教室正面の壁の高い場所には、乃木希典陸軍大将の写真と辞世の和歌が額に入ってかかげられていた。高学年になって男組、女組に別れると女組には静子夫人の写真と辞世の和歌がかかげられた。登校して教室に入る時は必ずその額に一礼する。放課後下校する際もきちんと頭を下げる。折りにふれ辞世の和歌もそらんじさせられた
”うつし世を 神去りましし 大君の みあとしたいて 我は行くなり 希典”
”ゆきまして かえります日のなしと聞く 今日のみゆきに あうぞ悲しき 静子”
 日露戦争の二〇三高地戦で作戦の不手際から多くの戦死者を出してしまった最高指揮官としての責任は語られることなく、明治天皇崩御の際殉死した乃木夫妻の忠義心を讃え、尊敬の念を子供達の心にしっかりと植えつけたのである。

   教科書
 教科書は全国同じの国定教科書であった。どこの土地に転校しても教科書は同じもので変わらない。為政者に忠実な個性のない人間を育てるには、国の定めた教科書を全国で使わせねばならなかったのだ。
 一九三四年(昭和九年)改訂された修身の教科書は、忠君愛国を道徳の柱としていた。神国日本の臣民として模範になる挿話や物語の記述が多かった。授業は教育勅語の奉唱から始まる。難しい勅語も、授業の度に唱えさせられるので、高学年になると級全員が暗唱できたものである。
 歴史は神話に基づいた天皇家の物語が中心だった。歴史の時間は授業の始めに歴代天皇の名を唱える。”ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク……今上天皇”となる。私と同年代の人は今でも最初から数代の名を口ずさめるのではないかと思う。百二十四代を私はもう忘れてしまったが、当時は級友誰もが暗唱できて当たり前だった。陽の当たる天皇家の逸話のみが記され、負の部分は一切語られることはなかった。偶像崇拝によって庶民を束ね、マインドコントロールする政治支配の恐ろしさ。オウム真理教事件の時、敗戦前の天皇信仰の恐怖を改めて思い起こしたのだった。
 私より少し若い教科書墨塗り世代は貴重な体験をしたと思う。その時の教師の対応によっては、教師への信頼が失われてしまった悲しみがあったかもしれない。しかし墨で塗りつぶすことによって、時代の指導者層の危うさ、偶像崇拝の愚かさを肌で感じられた筈である。教科書は画一化されてはならない。

   おわりに
 昭和初期から敗戦まで、一般庶民は自由、人権、平等、人類愛とかは全く無縁の教育を受けていた。命を捧げて悔いないと信じていた天皇という偶像が、敗戦によって粉々に破壊された時、純真な心はどれ程深く傷ついたことだろう。生きる目的を失った虚無感、欺かれていたことへの憤り、無知であった自分への慚愧、楽しかるべき青春の一時期は、開放感と苦悩がないまぜになって重く過ぎたのだった。七十年を過ぎた今もなお、友と嘆き合う。「あの戦争さえなければ……もっと早く戦争が終わっていれば……」と。
 当時の一般庶民は、殆どの人が画一的な小学校教育を何の疑いもなく受け入れていた。政党政治が力を失い、軍部が政治を掌握するようになって、”天皇信仰”は国のすみずみにまで行き渡った。知識階級の家庭の子女は”天皇信仰”の洗脳を受けずに済んだ人もあろう。それはそれで、治安維持法でがんじがらめになった社会の中で苦しめられたに違いない。
 多くの有識者が負けると予想していた無謀な戦争に、一般庶民は何故双手を挙げて協力してしまったのか。治安維持法に触れて捕らえられた反戦思想の人を白眼視したのか。現代の人には納得し難い庶民の感情は、皇民教育の中で広く育まれたのである。
 敗戦前の学校の日常を思い起こし、それを記すことで教育の重大さを多くの人達に訴えたい。今ではバカバカしいと思われる日常茶飯事が、個人の考え方、生き方に、ひいては国の運命に、どれほど多大な影響を与えることだろう。特に幼い日から思春期までの教育環境はかけがえのない貴重なものである。
 教育によって人は人格を備えた人となる。為政者の野望で教育が暴走した時、視野の狭い思考力の乏しい人間が数多く育ってしまう。多様な価値観を認め合い、差別のない社会、生命を大切にする社会、心の豊かさが貴ばれる社会の実現に、今ほど教育のあり方が問われる時代はないと思う。戦前の教育に近付くことは決して許されない。

小学校を出ていない世代も早「傘寿」です

小学校を出ていない世代も早「傘寿」です

仲宗根 將二

 1934(昭和9)年4月2日から翌35(昭和10)年4月1日までの生まれは、この世で唯一小学校を出なかった世代である。

 明治以来の普通教育=「皇民教育」は、大日本帝国憲法と教育勅語等に基づき、尋常高等小学校によって進められたが、1941年3月廃校となり、代って翌4月から国民学校が発足した。アジア・太平洋戦争に真只中、「皇国臣民の道」の教育を一層徹底させる趣旨の改革である。敗戦2年後の1947年3月、国民学校はこの世に6年存在しただけで消滅したために、この世代は最初の1年生であるとともに最後の卒業生となって、唯一小学校を出ていない世代にされたのである。

 音楽は「ドレミ・・・」ではなく「ハニホヘトイロハ」で、敵飛行機の爆音を聞き分けるための音感教育で始まるなど、すべての教科が軍国主義一色で塗りつぶされている。初等科4年生で天皇のために命を捧げる教育勅語を暗記させられ、5年生の「国史・上」では神話を歴史として学び、歴代天皇の名を暗記させられた。

1. 敵潜水艦に脅かされて・・・

1944(昭和19)年7月、鹿児島県大島郡と沖縄県全域の老幼婦女子は九州並びに台湾疎開が閣議決定された。表向きはともかく現実的には早晩戦場となるかもしれない南西諸島で、作戦上足手まといであり、さらに軍隊の食料確保のための疎開であった。翌8月から始まった疎開は、沖縄県からはおよそ10万人が制海権も制空権もない危険な海を輸送船(あるいは汽帆船)で、九州並びに台湾へ渡っている。九州への第一陣の対馬丸は七島灘で米潜水艦に撃沈され、学童780人を含む1485人が犠牲となった。

当時は公表されなかったが、そのせいであろう、理由も知らされず、宮古からの第三陣の輸送船は平良港沖合でほぼ一週間ほど碇泊し、那覇でもほぼ一週間身一つで旅館泊まりである。ここで沖縄本島組と合流して船団を組み、さらに本部半島沖合でほぼ一週間碇泊したのちの出発であった。敵潜水艦の動向を見極めるために各所での長期碇泊であったようだ。

現海洋博物記念公園のある本部半島沖合を離れた夜は、全員救命衣を着装して甲板に待機させられ、嵐のように大荒れの七島灘では夜通し爆雷の轟音と、すさまじい波しぶきを浴びながらまんじりともせず一夜を過ごした。翌日無事鹿児島湾に入り、その翌日の下船となったが、平時なら二昼夜の航海をおよそ一ヶ月近くの長旅になった。国民学校初等科4年生の8月~9月のことである。

2.「神話」を歴史として学ぶ

 疎開先の国民学校では男の先生はほとんど戦場に招集、あるいは軍需工場に動員されて動員されて大方女性の先生ばかりであった。校庭の大部分は食糧確保のための耕地と化しサツマ芋や大根などが植えられていた。飛行機の燃料にするといって松根油の搾取作業や、示現流の太刀木打ち等の訓練が、飢えと寒さに震えながら繰り返された。これらはすべて米軍の空襲の合間をぬっての作業であり、特訓であった。

1945年8月11日、敗戦4日前、米軍機の猛爆撃で全教室は市街地とともに全失した。戦後は兵舎を解体したすき間だらけのバラック教室で再開した。
とある日、意識調査のようなものがあった。設問の一つに、世界で一番偉い人は誰と思うかというのがあった。大方はトルーマン、チャーチル、マッカーサーなどを書いたようだ。週明けの初めての全校集会が吹きさらしの校庭で開かれた。校長が烈火の如く怒った。日本は戦争に負けはしたが、世界の一等国であることに変わりはない、諸君はいつから劣等国民になったか、世界で一番偉いのは天皇陛下だ、とすごい剣幕であった。

どちらが先であったか、いささか記憶は曖昧だが、同じ頃教科書の墨塗りをさせられた。軍国主義、超国家主義とみなされる記述について、何頁の何行目から何行目までと教師の指示で真っ黒く墨を塗るのである。6年生では、「国史、下」に代わって「くにのあゆみ」を教わった。

3. あたらしい憲法のはなし

 1947年4月、「六・三制」の施行で、国民学校最後の卒業生は、全員入学の新制中学校最初の1年生となった。2学期に入って、文部省発行の「あたらしい憲法のはなし」を学んだ。憲法の三原理である「民主主義」「国際平和」「主権在民」などだが、とくに平和主義と「前文」が強調されていたように記憶している。
 新しい憲法は国民みんなでつくった、みなさんがつくったものだ、兵隊も軍艦も飛行機など、およそ戦争するための一切持たない、国際間のもめごとはつねに話し合いで解決する、いつか憲法を変える時があっても「前文」の考え方と違った変え方をしてはいけないなどである。体罰がなくなり、正副級長も教師の指名でなく選挙で選ばれるようになり、生徒会が発足するなど変化が始まった。

4.「施政権」のみの返還

 1951年9月(翌52年4月28日発効)、講和条約で日本は北緯29度以南の奄美・沖縄と小笠原諸島を米軍にゆだねた。沖縄県は国内唯一の地上戦「沖縄戦」で、軍隊よりも多い十数万人の一般県民の命が失われ、引き続き米軍の全面占領下に置かれたのだ。米軍はさらに「銃剣とブルドーザー」で県民を追い出して土地を強奪し、軍事基地を拡大強化していった。県民は「土地を守る四原則」― ー括払い反対、適正補償、損害賠償、新規摂取反対― を堅持し、島ぐるみの闘争を展開した。

 1960年4月28日、自民党を除くすべての政党、労組、民主団体を結集して、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成された。「日本国憲法の下へ」が究極のスローガンであり、その間における県民の命と暮らしに関わるあらゆる当面する課題が取り組まれている。米軍(人)犯罪の糾弾はもとより、「主席公選」をはじめ自治権拡大、B52爆撃機撤去、原潜「寄港」阻止、毒ガス撤去、ベトナム戦争反対、「教公二法」阻止、国政参加要請など。「沖縄を返せ」は全国民的要求となり、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国連帯会議は、沖縄を分断した「4.28」を「沖縄デー」と決議して連帯を表明するなど国際問題に発展していった。

 1972年5月15日、祖国復帰(=沖縄返還)は実現した。しかし米軍基地はそのままで「施政権」のみの返還であり、県民要求にはまるで遠いものであった。返還当日、復帰協は那覇、宮古、八重山の3会場で「自衛隊配備反対、軍用地契約拒否、基地撤去、安保廃棄、沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒、5,15県民総決起大会」を開催して抗議している。

5. 普天間は閉鎖・撤去

 あれから40余年、諸悪の根源たる米軍基地は国土の0.6%の沖縄県に74%も集中し、米軍(人)による事件、事故は後を絶たない。

 かつて佐藤総理は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本にとって戦後は終わっていない」と言ったが、現状は「米軍基地がなくならない限り戦後は終わらない」どころか「沖縄県は今も戦中だ」といっても過言ではない。40余年前の県民総決起大会の名称は、内閣名を変えるだけで今も立派に通用することであろう。

 米軍言いなり、財界言いなりの安倍政権は、沖縄県民の基地負担の軽減と言いながら、県内新設に固執している。「オール沖縄」の要求は、2013年1月、政府に提出した県内全ての市町村長、同議会議長、県議会議長らの署名捺印した、普天間基地の辺野古移設反対、オスプレイ撤去、普天間基地の閉鎖、撤去を要請する「建白書」に明確に示されている。

 辺野古をかかえる名護市では、2010年の市長選挙と市議選挙、本年1月の市長選挙と9月の市議選挙で、4回に渡り新基地建設について反対側が圧勝している。普天間基地の辺野古への建設反対はもはや異論の余地なく鮮明にされているのである。
 小学校を出ていない世代も今年は「傘寿」とやらである。残された時間は限られているが、今置かれた所で、さらに連帯の輪を広げ、「9条」を脅かすあらゆる事柄に相応に対処していく思いを新たにしている。

 






散文詩  靖国神社詣で

    散文詩  靖国神社詣で
   - 東京法律事務所九条の会に-

                     わたなべ まさお

ひとりの爺さんが、靖国神社にやってきました。
爺さんは、大鳥居をくぐり 初冬の 参道の青空を黄色く
染めていく 銀杏(いちょう)並木を見上げながら
拝殿に向かって歩いていきます。
爺さんは、戦死したふたりの叔父さんや義兄に会いたいと
訪ねてきたのです。

拝殿のまえに立った爺さんは、想いが詰まってきたのか
あらあら 「なむあみだぶつ」 とつぶやいています。
ここ お寺ではないのに 般若心経をとなえはじめました。
困ったことに 爺さんは すこし認知症がはじまっています。
それでも お経は覚えていて 靖国の本殿をみつめながら
読経をはじめております。

昔の青年いま爺さんを、靖国の秋風がつつんでいます。

爺さんには、神殿に並んでいる大勢の英霊の命(みこと)達
の様子が見えてきました。
やっぱり今でも 東条首相を先頭に整列しておられるようで
爺さんは、後ろの方に フィリッピン・レイテ島で戦死した
ふたりの叔父と、ビルマ(ミャンマ-)のマンダレ-で戦死
した義兄の姿をどうにか見つけだしました。
爺さんがお経をとなえていると、英霊の命(みこと)達からも
低いつぶやきが聞こえてくるのです。


そのとき突然 爺さんの眼のおくに 日本軍が、上海の浜辺に
構えた支那軍のト-チカめがけて、突撃していく情景が現れて
きました。倒れていく日本の兵隊さん達が遠くに見えます。
「お国のために」「東洋平和のために」と厳命された攻撃。でも
其処は、別の国びとの生きる街 支那の市民たちが暮らしている
街でした。また
爺さんの視界の奥には、はるか太平洋戦争末期 靖国神社周辺の
町並も、爆撃で焼け焦がれ 人びと死傷し、九段上から 東京湾
までも見通せた、暗い冬の風景が浮かんできました。
英霊たちも、「なむあみだぶつ」と唱えているのか 低い重い
声 爺さんの胸中を揺すぶってくるのです。
命(みこと)になられて 遙かな歳月 私たちを見守ってこ
られた英霊の方々は、いまどんな想いで 昭和の戦争を沈思
深想しておられるのか。

神社には、出撃命令で、戦死した爺さんの身内が居り
戦場に倒れた 大勢の英霊の命(みこと)が鎮座され
かたや 戦争を開始し、進撃を厳命した政府首脳の英霊も
座っていて、今も、司令官・兵卒 整然とならんでいる様子。
戦争は、日本の 中国の 米英などの、人びとのいのちを
断ち切り 家族の仕合わせをうばいとり。日本社会を爆砕。
70年以前の、戦争の不義 むごたらしい惨状でした。


英霊の皆さんは、自分達が被った苦難を、子供や孫たち子孫
には、絶対に繰り返えさせないと願っておられるのでしょう。
それなのに 安倍政権は、なんで「集団的自衛権の行使」という
「戦争」などを企むのか。殺戮兵器の更新。戦争は地獄の旋律。
人びとの命や幸せを、国に捧げるべきだという「国益」とは?
一体誰のためですか、何のためなのか?「民益」の破戒です。
でも 拒否すれば 「お前は非国民」だと、ど突かれるのでは。
靖国の英霊たちは「とんでもない破滅の道だ」とささやいて
「しっかりしろ、瞞されるんじゃないよ」と諭しておられる。
爺さんの身内の命(みこと)たちは、もう話すのも嫌だ あの
残酷な戦争の毎日は 真っ平ご免だと 怒りにうちふるえ。

靖国に 戦争無情の鐘ひびき 沙羅双樹の花とじる

俗世を、いま懸命に泳いでいる 日本の人びとに
英霊の命(みこと)たちは呟(つぶや)いておられる。
「やめさせろ集団的自衛権行使」なんて。
皆さん 平和な国造りをこそ頼みますぞ・・・

気がつけば あれ、
爺さんの姿、神社奉安殿のおくに 背をかがめ 消え失せ。
銀杏(いちょう)の梢が、木枯らし吹く 蒼空にゆれています。

~ 2014,11~

戦争の思い出

東京法律事務所9条の会宛てに、宮沢博さんから手記を頂戴しましたので、ここに掲載します。

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戦争の思い出
                            宮沢博
学童集団疎開

大東亜戦争が烈しくなり、本土決戦に備え東京淀橋区(現在の新宿区)の学童3年から6年までの生徒が群馬県の草津温泉に集団疎開することになりました。
 昭和19年の夏、淀橋区第3小学校(淀橋第三分団)の分団長に任命された私は、約80名の学童を引き連れ、新宿・上野・軽井沢を経て草軽鉄道に乗り換えました。
 草軽鉄道は軽井沢から草津温泉までの観光線で、機関車は普通の機関車の半分ぐらいの大きさで、客車は二両連結で二両目は最後部がデッキになった観覧車で、速度は大変遅い。登り急勾配では先頭車両から降りて立ち小便をしても最後部に乗れるほど。
 我々は湯畑のそばの日新館に、その他は二つの旅館に分散することになりました。

 最初は修学旅行の気分にいたが、朝7時起床夜9時消灯の軍隊式。朝7時起床、旅館前の庭に集合、宮城に向かって最敬礼。ラジオ体操、軍歌を歌って解散、1階の大部屋(20畳ぐらい)で朝食。
 朝食後、6年生の教室に早変わり。3・4・5年生は他の旅館の教室に向かった。遠足、学芸会もあり、我々がいた半年は食糧事情も良かったが、我々が東京に帰った後は、食べるものに不自由したそうだ。 
 温泉の近くに瓜生楽生園という癩病患者の隔離された村があり、見学に行った。村の人は遠い所で見ていたが近寄ってこなかった。
 温泉の周りには栗林が沢山あり、秋には皆で取りに行き、栗ご飯はずいぶん食べた。
 冬はとても寒く、この年は零下20度近くになり、手が霜焼けで膨らみ、まんまるになった。お風呂の帰りに手拭いをぶら下げてくると、棒のようにカチカチになった。便所は水洗で無いので、大便は次々と重なり凍って山となり棒で叩いて割って取ったものだ。
 雪は例年より多く、近くの天狗山のゲレンデで閑さえあればスキーを教わった。現地の子供は上手で、おかげで一応滑れるようになった。

 2月、中学の入学試験があるので、6年生は東京に引き上げることになった。
 戦争も一段と烈しくなり、アッツ島、硫黄島などの玉砕、東京下町、山の手などの大空襲、長崎、広島の原爆投下など終戦につながる。
 私たちは戦争中に育ったので、歌は軍歌・国民歌謡ばかりだった。

東京山の手大空襲

昭和25年5月25日、深川などの下町の大空襲に次ぐ、二番目の大空襲。この大空襲で、新宿区、渋谷区、中野区、豊島区の広い範囲が焼失した。
 土曜日なので夕方、叔父の寝泊まりしている清水橋へ遊びにくるように誘われた。清水橋は現在の新宿中央公園から、永福町への方南町通り中程にある。
 叔父は徴兵に取られたが、検査で不採用。ただ痩せているだけで、身体はどこも悪くない。当時は徴兵に不採用は不名誉で、方々の病院に見てもらうも、悪くなかった。今思うと幸運だった。戦争に行っていたら死んでいたかもしれない。
 戦争も末期、叔父は徴用に(働けるものは軍用にだされる)淀橋にある写真工業の小西六、六桜社(現在のコニカ)にとられ、仕事は庶務係で清水橋にある食糧倉庫の担当に任命された。現在の小西六、六桜社の跡地は、新宿中央公園になっている。

 叔父の家族は長野県の松代に疎開、単身赴任だった。なお、松代は本土決戦にそなえて、山の中に大本営を移すため、大規模な洞窟を作っていた。天皇陛下も安全な松代に移るだろうと、うわさが流れていた。
 夕方5時ごろ到着、毎日炊事しているので、叔父の手料理は大変美味しい。夕飯を食べ終わり、雑談をしていると、空襲警報のサイレン。警戒警報はウーン・ウーンと断続に鳴る。来襲は「ウーーン・ウーーン」と長く鳴る。いつも聞き慣れているので、「また鳴っている」ぐらいしか思っていなかった。
 一応電気を消して話をしていると、上空にB29の爆弾機の大編隊。次々と焼夷弾を落とし始めた。「バアーン」と大音響。大型の親爆弾が空中で炸裂して、10センチくらいの六角錐、縦50センチほどの焼夷弾が分裂して、雨が降るようにバラバラと大量に落ちてきた。当たれば即死、外には出られない。外が急に明るくなる。庭の前には川があり、川の向こうの家が燃えはじめている。

 部屋に戻り、急いで足に脚絆、ヘルメットをかぶり外へ飛び出す。隣にある米俵が山と積んである食糧倉庫にも、焼夷弾が落ちて燃え始めている。
 庭の隅にある井戸で水をくみ出し、叔父とバケツで消火、汗だくで20~30分で消し止めたが、周りの家が燃え上がって大火災、手がつけられない。逃げるより方法がない。2人は別々の方向に逃げる。何処へ行っても火の勢いがすごい。周り中が燃えている。夜中なのに、火の海なので昼間みたいに明るい。当時は家と家との間が、一人が通れるほどの空間あり。暗い方へ暗い方へと逃げる。どちらの方向に逃げているか全くわからない。広い通りに出た。罹災者であふれている。
 老人、女性の子供づれが逃げまどう。軍人もいる。軍刀を片手に持って大股で行ってしまう。大通りは方南町通りらしい。大宮八幡宮の方へ行くことにした。
 大宮八幡宮の公園は広いので安心だろう。途中、東大附属小学校まで来るとその先は大火で電柱が焼けて倒れ、電線などで道を塞ぎ行かれない。

 学校の周りは、まだ焼けていない。当時の広い校庭は、野菜畑になっており、必ず防空壕が作ってある。まだ焼夷弾が落ちてくる。途中、焼夷弾が当たって数人の女性が死んでいるのを見た。危ないので、防空壕を探して入ることにした。
暗い校庭には人影はない。探すとすぐに見つかった。頑丈な木の扉を開け入り込む。真っ暗で誰もいない。入り口で頑張っていると、10分ぐらいたっただろうか。どかどかと大勢の人が入り込んできた。
 老人が多い。子供を含めて20人はいるだろう。外は火の海だ。そのうちに「南無妙法蓮華経」の大合唱が始まる。この辺は堀之内の妙法寺があり、日蓮宗の信者が多いので、お経が始まったのかもしれない。 
 かれこれ5~6時間はいただろう。外へ出てみると、学校も周りの家々も焼けつくし、まったくの焼け野原。親父が心配になってきた。家族は皆疎開しているので、親父と手伝いのお姉さんと三人暮らし。急いで帰ろうと思ったが、焼け野原なので方向がわからない。喉がすごく渇く。水道も井戸水もない。だんだんと明るくなってきた。

 通りには軍用のトラックがきて、食料の配給が始まる。長い列ができ、並んでいると、その地域の人でないと貰えなかった。新宿の方向を聞きながら一時間ぐらい歩いただろう。ようやく十二社通りに出た。
 十二社通りも全滅。焼け残った家、一軒もなし。家の近くに来ると、通りにムシロを敷いて何十人も座っている。私の姿を見ると皆が立ち上がり大騒ぎ、被災から何時間も経っているので死んだのだと思っていたのだろう。家の裏にあった長屋の人々は中野坂上の「塔の山」に避難して全員死亡したそうだ。探し回っていた親父も帰ってきた。酒屋の家族は淀橋の川(神田川)に入っていたらしい。水面を火が走り相当の人が死んだらしい。皆疲れて寝ている人もいる。
 お昼近くに、洋品組合の高田の馬場の坂田さんの女中さんが、自転車で迎えに来てくれた。父は洋品組合の理事長をしていた。高田の馬場の一角は罹災しなかった。
 自転車のうしろに乗せてもらって高田の馬場に向かった。青梅街道筋の焼け倒れた電柱や大量の電線など、軍隊や地元の物が出て、かたし始めていた。

 成子坂下から新宿に行く。木造家屋はことごとく焼け、大正時代に建てられた小さなビルが所々に焼けただれていた。
 歌舞伎町前の都電通り(今の靖国通り)を通る。右側の大きなビル(伊勢丹百貨店)の各窓から黒煙が噴き出ていた。左折して明治通りを池袋方向へ、学習院初等科の通り、戸塚の交差点を左折(早稲田通り)、高田の馬場へ。この辺は一部焼け残る。坂田洋品店は無事。この店に二日ばかり厄介になる。親父が迎えに来て、学習院の隣、戸塚の高台にある画家のアトリエに引っ越す。このアトリエは新宿通りにあるウェスタリア洋品店の主人が画家なのでアトリエを持っていた。
 アトリエは二階建てで、一階の居間は中央が広く、吹き抜けになっていて、天井はガラス張り、二階は周りが部屋になっている。階段や壁には絵画や彫刻がいっぱいあった。

空襲の夜にはB29の編隊が天井を通してよく見えた。
十日ばかりの後、空襲があり、駅近くが焼失、このアトリエから高田の馬場の駅が目の前に見えるようになった。

学徒動員の歌
花も蕾(つぼみ)の八重桜 
 五尺(百五十糎)の命ひっさげて
国の大事に、順ずるは 
 我等学徒の本分に
ああ、紅(くれない)の血が燃える

非戦闘員

 昭和20年4月1日、巣鴨にある中学に入学した。戦局は非常に悪く、爆撃機や戦闘機が東京を襲った。多くの学生は勤労動員に出され、国鉄(JR)の山手線や私鉄の運転手・車掌は女子学生が行っていた。
 新入生は勤労動員はなかった。授業中、警戒警報が鳴ると授業は中止、多勢の学生が校庭に出て運動していると、はるか向こうに戦闘機を見た。
 戦闘機(カーチェス)二機が突然方向を変え、多勢の学生がいる校庭に向かって機銃掃射、皆は飛行機に向かって左右に逃げる。バンバンバンと土煙をあげる。飛行機は速いので瞬間の出来事。戦争中なので、あまり怖くなかった。誰も弾に当たった者はいない。戦闘機は直線で飛んでいるので、弾筋は一直線に描かれていた。

 空襲で家が焼かれ、一時長野県の親戚に疎開し、長野の中学校に転校した。田舎にも艦載機の来襲があった。長野飛行場が近かったかもしれない。
 艦載機は長野飛行場を爆撃した後で、帰り道の道路や民家に機銃掃射をしながら飛び去っていった。機銃掃射は二度目、のんびりした田舎の方が、すごく怖く心底から恐怖が湧いた。路上にいたので艦載機が来た時、藁葺きの屋根の農家に飛び込んだ。艦載機から撃った弾は藁屋根には通さなかった。農家の人に私が飛び込んだので撃たれた、と抗議された。国道十八号線にいた荷物を運んだ馬が、弾に当たり死んでいた。

 8月15日の終戦の日も長野にいた。夏休み中だった。午前中は小川で水泳を楽しんでいた。桑の実が赤く熟して、甘酸っぱい実を沢山食べた。
 12時に重大な放送があるとのことで、家に帰りラジヲのスイッチを入れ放送を聞いた。しかし、ラジヲが古いのか電波が悪いのか、喋っている話は全然わからなかった。戦争が終わったらしい。
 夏休みも終わり、国道十八号線を一里ばかり歩く中学校に通い始めた。 
 半年程経った或る日、国道十八号線に進駐軍の50~60台のトラックやジープがつぎつぎと走り去って行く。
 子共たちが見送って、国道に立っていると、ジープに乗った兵隊が、クッキー・キャラメル・ガムなどを撒きながら通って行く。長野飛行場や新潟方面に進駐するのだろう。
 私は大空襲と艦載機の機銃掃射の、死の恐怖を二度体験した。

勤労動員の唄
花も蕾の 八重桜 
 五尺の命 引っさげて
国の大事に 順ずるは 
 我が学徒の 本分に
ああ 紅の 血が燃ゆる

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