戦争の思い出

東京法律事務所9条の会宛てに、宮沢博さんから手記を頂戴しましたので、ここに掲載します。

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戦争の思い出
                            宮沢博
学童集団疎開

大東亜戦争が烈しくなり、本土決戦に備え東京淀橋区(現在の新宿区)の学童3年から6年までの生徒が群馬県の草津温泉に集団疎開することになりました。
 昭和19年の夏、淀橋区第3小学校(淀橋第三分団)の分団長に任命された私は、約80名の学童を引き連れ、新宿・上野・軽井沢を経て草軽鉄道に乗り換えました。
 草軽鉄道は軽井沢から草津温泉までの観光線で、機関車は普通の機関車の半分ぐらいの大きさで、客車は二両連結で二両目は最後部がデッキになった観覧車で、速度は大変遅い。登り急勾配では先頭車両から降りて立ち小便をしても最後部に乗れるほど。
 我々は湯畑のそばの日新館に、その他は二つの旅館に分散することになりました。

 最初は修学旅行の気分にいたが、朝7時起床夜9時消灯の軍隊式。朝7時起床、旅館前の庭に集合、宮城に向かって最敬礼。ラジオ体操、軍歌を歌って解散、1階の大部屋(20畳ぐらい)で朝食。
 朝食後、6年生の教室に早変わり。3・4・5年生は他の旅館の教室に向かった。遠足、学芸会もあり、我々がいた半年は食糧事情も良かったが、我々が東京に帰った後は、食べるものに不自由したそうだ。 
 温泉の近くに瓜生楽生園という癩病患者の隔離された村があり、見学に行った。村の人は遠い所で見ていたが近寄ってこなかった。
 温泉の周りには栗林が沢山あり、秋には皆で取りに行き、栗ご飯はずいぶん食べた。
 冬はとても寒く、この年は零下20度近くになり、手が霜焼けで膨らみ、まんまるになった。お風呂の帰りに手拭いをぶら下げてくると、棒のようにカチカチになった。便所は水洗で無いので、大便は次々と重なり凍って山となり棒で叩いて割って取ったものだ。
 雪は例年より多く、近くの天狗山のゲレンデで閑さえあればスキーを教わった。現地の子供は上手で、おかげで一応滑れるようになった。

 2月、中学の入学試験があるので、6年生は東京に引き上げることになった。
 戦争も一段と烈しくなり、アッツ島、硫黄島などの玉砕、東京下町、山の手などの大空襲、長崎、広島の原爆投下など終戦につながる。
 私たちは戦争中に育ったので、歌は軍歌・国民歌謡ばかりだった。

東京山の手大空襲

昭和25年5月25日、深川などの下町の大空襲に次ぐ、二番目の大空襲。この大空襲で、新宿区、渋谷区、中野区、豊島区の広い範囲が焼失した。
 土曜日なので夕方、叔父の寝泊まりしている清水橋へ遊びにくるように誘われた。清水橋は現在の新宿中央公園から、永福町への方南町通り中程にある。
 叔父は徴兵に取られたが、検査で不採用。ただ痩せているだけで、身体はどこも悪くない。当時は徴兵に不採用は不名誉で、方々の病院に見てもらうも、悪くなかった。今思うと幸運だった。戦争に行っていたら死んでいたかもしれない。
 戦争も末期、叔父は徴用に(働けるものは軍用にだされる)淀橋にある写真工業の小西六、六桜社(現在のコニカ)にとられ、仕事は庶務係で清水橋にある食糧倉庫の担当に任命された。現在の小西六、六桜社の跡地は、新宿中央公園になっている。

 叔父の家族は長野県の松代に疎開、単身赴任だった。なお、松代は本土決戦にそなえて、山の中に大本営を移すため、大規模な洞窟を作っていた。天皇陛下も安全な松代に移るだろうと、うわさが流れていた。
 夕方5時ごろ到着、毎日炊事しているので、叔父の手料理は大変美味しい。夕飯を食べ終わり、雑談をしていると、空襲警報のサイレン。警戒警報はウーン・ウーンと断続に鳴る。来襲は「ウーーン・ウーーン」と長く鳴る。いつも聞き慣れているので、「また鳴っている」ぐらいしか思っていなかった。
 一応電気を消して話をしていると、上空にB29の爆弾機の大編隊。次々と焼夷弾を落とし始めた。「バアーン」と大音響。大型の親爆弾が空中で炸裂して、10センチくらいの六角錐、縦50センチほどの焼夷弾が分裂して、雨が降るようにバラバラと大量に落ちてきた。当たれば即死、外には出られない。外が急に明るくなる。庭の前には川があり、川の向こうの家が燃えはじめている。

 部屋に戻り、急いで足に脚絆、ヘルメットをかぶり外へ飛び出す。隣にある米俵が山と積んである食糧倉庫にも、焼夷弾が落ちて燃え始めている。
 庭の隅にある井戸で水をくみ出し、叔父とバケツで消火、汗だくで20~30分で消し止めたが、周りの家が燃え上がって大火災、手がつけられない。逃げるより方法がない。2人は別々の方向に逃げる。何処へ行っても火の勢いがすごい。周り中が燃えている。夜中なのに、火の海なので昼間みたいに明るい。当時は家と家との間が、一人が通れるほどの空間あり。暗い方へ暗い方へと逃げる。どちらの方向に逃げているか全くわからない。広い通りに出た。罹災者であふれている。
 老人、女性の子供づれが逃げまどう。軍人もいる。軍刀を片手に持って大股で行ってしまう。大通りは方南町通りらしい。大宮八幡宮の方へ行くことにした。
 大宮八幡宮の公園は広いので安心だろう。途中、東大附属小学校まで来るとその先は大火で電柱が焼けて倒れ、電線などで道を塞ぎ行かれない。

 学校の周りは、まだ焼けていない。当時の広い校庭は、野菜畑になっており、必ず防空壕が作ってある。まだ焼夷弾が落ちてくる。途中、焼夷弾が当たって数人の女性が死んでいるのを見た。危ないので、防空壕を探して入ることにした。
暗い校庭には人影はない。探すとすぐに見つかった。頑丈な木の扉を開け入り込む。真っ暗で誰もいない。入り口で頑張っていると、10分ぐらいたっただろうか。どかどかと大勢の人が入り込んできた。
 老人が多い。子供を含めて20人はいるだろう。外は火の海だ。そのうちに「南無妙法蓮華経」の大合唱が始まる。この辺は堀之内の妙法寺があり、日蓮宗の信者が多いので、お経が始まったのかもしれない。 
 かれこれ5~6時間はいただろう。外へ出てみると、学校も周りの家々も焼けつくし、まったくの焼け野原。親父が心配になってきた。家族は皆疎開しているので、親父と手伝いのお姉さんと三人暮らし。急いで帰ろうと思ったが、焼け野原なので方向がわからない。喉がすごく渇く。水道も井戸水もない。だんだんと明るくなってきた。

 通りには軍用のトラックがきて、食料の配給が始まる。長い列ができ、並んでいると、その地域の人でないと貰えなかった。新宿の方向を聞きながら一時間ぐらい歩いただろう。ようやく十二社通りに出た。
 十二社通りも全滅。焼け残った家、一軒もなし。家の近くに来ると、通りにムシロを敷いて何十人も座っている。私の姿を見ると皆が立ち上がり大騒ぎ、被災から何時間も経っているので死んだのだと思っていたのだろう。家の裏にあった長屋の人々は中野坂上の「塔の山」に避難して全員死亡したそうだ。探し回っていた親父も帰ってきた。酒屋の家族は淀橋の川(神田川)に入っていたらしい。水面を火が走り相当の人が死んだらしい。皆疲れて寝ている人もいる。
 お昼近くに、洋品組合の高田の馬場の坂田さんの女中さんが、自転車で迎えに来てくれた。父は洋品組合の理事長をしていた。高田の馬場の一角は罹災しなかった。
 自転車のうしろに乗せてもらって高田の馬場に向かった。青梅街道筋の焼け倒れた電柱や大量の電線など、軍隊や地元の物が出て、かたし始めていた。

 成子坂下から新宿に行く。木造家屋はことごとく焼け、大正時代に建てられた小さなビルが所々に焼けただれていた。
 歌舞伎町前の都電通り(今の靖国通り)を通る。右側の大きなビル(伊勢丹百貨店)の各窓から黒煙が噴き出ていた。左折して明治通りを池袋方向へ、学習院初等科の通り、戸塚の交差点を左折(早稲田通り)、高田の馬場へ。この辺は一部焼け残る。坂田洋品店は無事。この店に二日ばかり厄介になる。親父が迎えに来て、学習院の隣、戸塚の高台にある画家のアトリエに引っ越す。このアトリエは新宿通りにあるウェスタリア洋品店の主人が画家なのでアトリエを持っていた。
 アトリエは二階建てで、一階の居間は中央が広く、吹き抜けになっていて、天井はガラス張り、二階は周りが部屋になっている。階段や壁には絵画や彫刻がいっぱいあった。

空襲の夜にはB29の編隊が天井を通してよく見えた。
十日ばかりの後、空襲があり、駅近くが焼失、このアトリエから高田の馬場の駅が目の前に見えるようになった。

学徒動員の歌
花も蕾(つぼみ)の八重桜 
 五尺(百五十糎)の命ひっさげて
国の大事に、順ずるは 
 我等学徒の本分に
ああ、紅(くれない)の血が燃える

非戦闘員

 昭和20年4月1日、巣鴨にある中学に入学した。戦局は非常に悪く、爆撃機や戦闘機が東京を襲った。多くの学生は勤労動員に出され、国鉄(JR)の山手線や私鉄の運転手・車掌は女子学生が行っていた。
 新入生は勤労動員はなかった。授業中、警戒警報が鳴ると授業は中止、多勢の学生が校庭に出て運動していると、はるか向こうに戦闘機を見た。
 戦闘機(カーチェス)二機が突然方向を変え、多勢の学生がいる校庭に向かって機銃掃射、皆は飛行機に向かって左右に逃げる。バンバンバンと土煙をあげる。飛行機は速いので瞬間の出来事。戦争中なので、あまり怖くなかった。誰も弾に当たった者はいない。戦闘機は直線で飛んでいるので、弾筋は一直線に描かれていた。

 空襲で家が焼かれ、一時長野県の親戚に疎開し、長野の中学校に転校した。田舎にも艦載機の来襲があった。長野飛行場が近かったかもしれない。
 艦載機は長野飛行場を爆撃した後で、帰り道の道路や民家に機銃掃射をしながら飛び去っていった。機銃掃射は二度目、のんびりした田舎の方が、すごく怖く心底から恐怖が湧いた。路上にいたので艦載機が来た時、藁葺きの屋根の農家に飛び込んだ。艦載機から撃った弾は藁屋根には通さなかった。農家の人に私が飛び込んだので撃たれた、と抗議された。国道十八号線にいた荷物を運んだ馬が、弾に当たり死んでいた。

 8月15日の終戦の日も長野にいた。夏休み中だった。午前中は小川で水泳を楽しんでいた。桑の実が赤く熟して、甘酸っぱい実を沢山食べた。
 12時に重大な放送があるとのことで、家に帰りラジヲのスイッチを入れ放送を聞いた。しかし、ラジヲが古いのか電波が悪いのか、喋っている話は全然わからなかった。戦争が終わったらしい。
 夏休みも終わり、国道十八号線を一里ばかり歩く中学校に通い始めた。 
 半年程経った或る日、国道十八号線に進駐軍の50~60台のトラックやジープがつぎつぎと走り去って行く。
 子共たちが見送って、国道に立っていると、ジープに乗った兵隊が、クッキー・キャラメル・ガムなどを撒きながら通って行く。長野飛行場や新潟方面に進駐するのだろう。
 私は大空襲と艦載機の機銃掃射の、死の恐怖を二度体験した。

勤労動員の唄
花も蕾の 八重桜 
 五尺の命 引っさげて
国の大事に 順ずるは 
 我が学徒の 本分に
ああ 紅の 血が燃ゆる

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