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大戦下・十四才の思い出

 大戦下・十四才の思い出
                       上 村  力

昭和二十年二月十五日 飯山地方は昨年暮れからの大雪であり其の日も朝から雪降りである。

村立太田尋常高等小学校の体操場に全校生徒約六〇〇人が集まり壇上に、三月二十日の卒業を待たずにして受持の先生が選抜された七人の十四才の(高等科二年生)男子生徒の送行会が開かれた。私はその団の代表として挨拶を致しました。

何を言って挨拶したかは憶えて居ないが、「甲種食糧増産隊として国のため食料増産隊として頑張って出発します、在校生徒も頑張って下さい」と挨拶をして、六年男子生徒が私達の荷物を橇に乗せて飯山線は大雪のため飯山以北不通になり、飯山駅まで十六キロの雪道を送って下さいました。大雪の連続積雪二米余の雪道を朝八時に出発して午後三時半頃やっと飯山の町にたどり着き、飯山駅から長野への汽車が雪のため更に不通明日開通するとの事、やむを得なく飯山館さんに泊まる事になる。

翌日 飯山線が除雪され(ラッセル車が立ち往生の中人力で)ようやく長野駅から、小諸駅へ小海線に乗り日本一標高の高い小海駅に夜の七時頃着く事が出来た。

私達を送ってくれた橇部隊の同級生は、雪の中死物狂いで雪だるまになって太田小学校へたどり着いたそうです。
子供心に私達は旅行気分で大雪の飯山から寒いが雪の少ない野辺山高原に着き、新天地に降り立ちうきうきの気持ちで宿舎の門を入ると突然怒号が響き「貴様らたるんでいる」と聞こえた途端にホッぺタにピンタが飛んできた、何も知らない十四才の私達に取ってこれはえらい所へ来てしまったと只々おろおろするばかりでした。
朝薄暗いうちの起床点呼、零下二十度の厳寒の中で軍隊同様の訓練が始まるのであります。

宿舎は真中に土間の通路あり藁ムシロ敷一枚 外壁は板張り一枚 雪に吹雪が吹込んで来て外気と同様の気温、約八十坪の通路にダルマストーブが一個で薪は生薪で雪原の立ち木の枝を拾い集めての燃料であり、良く燃えないので煙が立ち込める状況でありました。

戦時下 着る物は木綿が主流で毛糸の暖かい着物がほとんど手に入ない時代でありました。
十四才の私達はほとんど凍傷を患い、歩くと足の指先やかかとが痛く歩行も出来ない状況であり、その上もたもたしていると平手打ちがとんで来るのであります。

軍事訓練と言っても訓練機材ない戦争末期 竹ヤリの毎日の軍事訓練で雪の野原の上の歩行跳び訓練。更に精神訓練は軍人勅語・教育勅語 五ヶ条の御誓文の暗記であります、一人一人復唱させられ暗唱が出来ないと二人一組で対交ピンタ 加減して相手を打つと班長小隊長からの命令で全員での対交ピンタであります。十四才の私達に取って毎日が地獄の用な日々であり、伸び盛り、食い盛りの私達は大豆半分麦半分の食事は、凍傷と栄養失調で次から次へと落伍者が出る始末であり、死亡者も出た程でありました。

厳しい厳寒の地長野県野辺山での訓練も春になり訓練場所が学徒出陣の空き校舎、地元中野町の実業中学校に移転して 六月にはサイパン島が陥落し全島全員玉碲の報がありいよいよ本土決戦への報道が流された。私達十四才の食料増産部隊も沖縄戦線へとの掛け声のもと、軍事訓練が一層気合のかかったものになり、沖縄戦線への選抜隊の編成もされる噂が飛び交うなぞ日増し十四才の小生に取って胸が躍り毎日落ち着かない日が続きました。

幸い八月十三日よりお盆休暇となり、八月十五日の玉音放送はラジオの少ない村だけに、近所のお宅の縁先で聞き何となく日本が負けたとの情報を察知する事が出来ました。
注(衣服にシラミ、南京虫が寄生していて着ていた衣類を脱ぎ、庭先で熱湯の釜で殺虫してから家に入れてもらったそんな帰省の状況でありました。)

私達農兵隊(隊の略称)はどうなるかとの心配がありましたが 一先ず隊へ帰るよう連絡が役場からあり八月二十五日に帰隊し軍事訓練がなくなり、食料増産への日課に戻り隊長、小隊長は学校の先生在職の方々ですので少々の学課も教える時間も出来てきましたが、その方々の説明では三月まで此の隊に在籍せれば中学校一年の教科の課程を修了出来るとの事でした。しかし三月中旬になり隊が解散して役場と学校へ挨拶に行き「只今隊が解散になりましたので帰りました」挨拶致した所 開口一番何グズグズしてたのだ戦争は終ったのになぜ早く帰って来ないんだ、𠮟り飛ばされて私達は取り付く所もなく只オロオロするばかりでした。
事の経過はアメリカ軍駐留に依り学校制度が変わる、君達の行く学校は廃止になるとの事 中学校一年生の課程を修了したと思っていた私達に取って目の先が眞暗になってしまいました。

私はこの時程世の中や学校の先生を不信に思った事はありませんでした。
私達を強性的に農兵隊へ送り出した先生、役場の話であります。

以来 多感な少年、青年期に取って世間に対し抵沆感を強く思う様になるのであります
村役場や学校の先生方が戦争に勝つため国のためと半ば強制的に農兵隊へと送り出して、戦争が終ったから無責任に我々の力ではどうにもならないと言う村役場や学校の先生方を許せない気持ちが日増しに強くなるのでありました。

思い返すと終戦と同時に農兵隊を解放するべきでなかったかと戦後七十年の今日 占領軍に依る学制改革の始まる前に旧中学校に編入出来たのにと今思い、悔しき思い出として残るのであります。

八十四才になる人生。私の生涯を狂わせた少年期十四才の苦しい思い出での記録でございます。
                      
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