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丸木美術館「原爆の図」を見て

丸木美術館「原爆の図」を見て
                               平島千恵子

 今年の3月「つくば九条の会」ピースツアーで、東松山市の丸木美術館と蔵の町川越市に行きました。
 丸木美術館では、各地で展示会を開催しているため「原爆の図」全作品が揃う事はめったにないとの事でしたが、私達は15部作品のうち14部を見ることができました。私の中に残影としてあった「原爆の図」が目に飛び込んできた時、思わず涙が溢れ、60数年前の記憶が蘇ってきました。

【戦争、防空壕の恐怖】
1939年、東京の中野区で生まれた私は3月10日の東京大空襲もここで体験しました。当時6歳、小学校入学の年齢でした。戦争が激しさを増し、毎晩のように鳴るサイレンと空襲警報、その度に一人で防空壕に入らなければなりませんでした。
母は、弟を出産したばかりで身動きが取れず、父も警防団の仕事で家にはおりませんでした。真暗闇の中、手探りで入る防空壕は6歳の私にはとても恐怖でした。

【3月10日、東京大空襲】
真っ赤な空、ものすごい熱風、風に飛ばされてきた黒焦げの着物の切れ端、柄がはっきり分かるものもありました。東京は危ないと判断した父は、5月半ば、新潟県の長岡に私たちを疎開させました。両親の実家です。
疎開した3日後、東京の我が家は空襲で全焼し、疎開先の長岡も8月1日から2日の空襲で焼け野原となりました。あの凄まじい炎と逃げ惑う人々の姿が今でも脳裏に焼き付いています。

【終戦でやっと学校に】
玉音放送で終戦が告げられ、ようやく小学校に通えるようになりました。教室は疎開した子供でいっぱいとなり、黒板の下で先生の話を聞いていました。机も椅子も足りません。本もノートもありません。先生がガリ版刷りしたわら半紙での授業でした。先生たちも一生懸命でした。それでも空襲警報もサイレンも鳴らない安心感が教室にはありました。

【終戦から7年「原爆の図」との出会い】
 1952年6月、長岡市立坂の上小学校で「原爆の図」展が開催されました。中学一年生の時です。担任であった渡辺先生に引率されて見に行きました。丸木夫妻が描いた「原爆の図」は当時3部作まで完成し、全国各地で巡回展が開催されていました。
 初めて見た「原爆の図」にもの凄いショックを受けました。引率して下さった渡辺先生は、一学期だけの担任で、その後教職員組合の専従になられたと聞きました。短期間の担任でしたが先生は私達に、戦争の愚かさや悲惨さを教えてくださいました。私の平和に対する考え方の原点となっています。

【憲法9条】
 安倍内閣は、集団的自衛権行使を容認し、海外で戦争する国につくり変えようとしています。憲法9条のもとで「戦争をしない」と誓った日本の国のあり方を勝手に作り変えるなど、許されることではありません。
 戦争を体験した一人として、子供や孫たちが再び戦争に巻き込まれることのないよう憲法9条を守り、平和の大切さ、命の大切さを伝えていきたいと思います。

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