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戦前教育を省みる

当会に寄せられた手記をご紹介します。

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戦前教育を省みる

初見千恵子

   はじめに
 昭和初期生まれ、私と同年輩の著名な方の、「私は敗戦まで軍国少年でした」と述懐される言葉に接すると、かつての軍国少女は思わず「ああ、やっぱり」と頷いてしまう。教育の持つ力の大きさを再確認させられるのだ。私の世代が小学校に入学したのは、大正デモクラシーの時代が終わり、国土拡張のためアジア侵攻をもくろむ軍部の力が急速に拡大されつつあった一九三五年(昭和一〇年)の春である。その頃の教育環境を思い出すと、何気ない日常行動の中から人格が形成され、強固な思想が植えつけられていくことが身に沁みてわかってくる。

   奉安殿
 当時各学校には一坪ほどの小さい建物ながら、堅固なコンクリート造りの奉安殿なるものがあった。内部には今上天皇、皇后の「御真影」と教育勅語が納められていた。奉安殿は校舎からかなり離れた校庭の隅にありその一画は常緑樹に囲まれていた。地震、火事等の災害から守れるように、そして荘厳な雰囲気を醸し出すようにという配慮があったのだろう。同じような規模の学校はどこも似たような奉安殿造りだったようである。
 正面の扉の上には菊の紋が金色に輝いている。天皇家の紋の菊の花びらは十六枚なので”十六の菊のご紋”と称された。図画の時間で菊を写生する時に花弁を十六枚にしてはならなかった。数を同じにしては恐れ多いというのである。紋章までが特別に神聖なものとして教えこまれた。些細なことで不敬罪に問われる時代であった。重厚な扉には、頑丈な閂(かんぬき)がかけられている。奉安殿の御真影が傷ついたり焼けたりすれば、校長は自決しなければならないのだと聞いていた。
 敗戦前の激しい空襲の中で、奉安殿の御真影はどんな運命を辿ったのだろうかと思いを馳せる。天皇の写真は命をかけて守らなければならないという理不尽な掟を、疑いもせずに受け入れていた私達国民、庶民の命は一枚の写真より軽かった。
 生徒達は登下校の際、校門で直立不動、奉安殿の方角に向かって最敬礼する規則であった。

   式典
 一月一日の四方拝(元旦の宮廷行事)、二月十一日紀元節(神武天皇即位の日)、四月二十九日天長節(天皇誕生日)、十一月三日(明治節)を四大節の祝日と称した。また春季皇霊祭(春分の日)、秋季皇霊祭(秋分の日)、十月十七日の神嘗祭、十一月二十三日の新嘗祭等の祭日を加え,祝祭日はすべて皇室と関連づけられていた。祭日は休校となるが、四大節の祝日は式典が執り行われて全校生徒が登校した。ちなみに皇后誕生日の三月六日の地久節は祭日並で女学校のみ式典が行われた。
 会場の雨天体操場(体育館)には紫の幕が張り巡らされ日の丸の旗が飾られる。正面の高い位置に奉安殿から運ばれた天皇皇后の御真影が鎮座していて、式の始めにその写真を覆っていたカーテンが引かれる。先生方は正装で立ち並び、生徒達もよそゆきの服装で参列した。
 奉安殿から取り出された教育勅語が黒塗りの角盆の上に載せられ、白手袋をはめた教頭が捧げ持って式典会場にしずしずと運んでくる。校長は教頭から教育勅語をうやうやしく受け取りおもむろに奉読を始める。一語でも読み間違えたら降格されるという噂であった。生徒達はかしこまって頭を垂れ、私語は勿論身動きさえも許されない。緊張で息のつまる長い時間だった。式後に配られる紅白の菓子が楽しみで、子供達はじっと我慢していたのかもしれない。女学校時代の友人と話し合うと、どこの学校でも誰もが似たり寄ったりの経験をしている。式典も全国一律教育の一環だったのであろう。

   訓話
 校長訓話の骨子はいつも決まっていた。
「我が大日本帝国は万世一系の天皇陛下が治め給う国であります。天皇陛下は天照大神の子孫で現人神(あらひとがみ)であらせられます。日本人は天皇陛下の赤子(せきし)として生まれてきたのです。天皇陛下のために働き、天皇陛下のために命を捧げなければなりません。天皇陛下に忠義を尽くすために一生懸命勉強し、体を鍛えて立派な日本人になりなさい。それが一番親孝行でもあるのです。」当時、天皇とは人の姿をして現世に現れる神であり、国民はその掌中にある子供と教えられていた。
 くり返される校長の言葉は小さなやわかい心に沁みこんでいく。”そうか、私は天皇陛下のために生まれたんだ。天皇陛下万歳と言って喜んで死ぬんだな。天皇陛下万歳のあと、おかあさんと呼びたいな、それはいけないのかなあ”天皇信仰は小学校低学年から胸に刻み込まれていった。
 小学校四年生の日の先生との会話を思い出すと今でも複雑な思いにとらわれる。
「君が代の意味を説明しなさい」
「ハイ、天皇陛下の治めるこの世の中は、千年も八千年も、小さな石が大きな岩となって苔が生えるほど長く栄えます」
「よろしい、よくできました」
 天皇制を讃える歌として襟を正して君が代を歌った子供達は、徹底した皇民教育の中で”天皇教”の強固な信者となっていったのである。
 現在では歌詞の意味を問われることも考えることもなく式の歌として唱されているらしい「君が代」、その由来を古典研究者から教えられた。
 古今和歌集巻七の賀歌の巻頭に、題しらず、よみ人しらず、「わが君は 千代に八千代に……」の歌の上句、「わが君は」を「君が代は」に替えて、明治政府が国歌に定めたとのことである。「わが君」は愛する人を指しているのではないだろうか。「君が代」についての議論は多々あるが、わが君と詠んだ作者は思わぬなりゆきに戸惑っていることであろう。

   朝礼
 雨天の日以外は毎朝校庭で朝礼が行われていた。千人を越える全校生徒が整列し、先ず皇居のある東京の方角を向いて姿勢を正す。「宮城遙拝」の号令と共に最敬礼をしてから朝礼台に向き直り校長の訓示を聞く。列を乱したり私語をしたりすると朝礼を取りしきる教師の怒号がとぶ。高等科の生徒が不真面目な態度を咎められてビンタを受けたりすると、遠く離れた列の出来事であっても私は体が硬直してしまった。訓示、体操、諸注意が終わって一列縦隊まるで軍隊のように規則正しい足どりで各教室へ向かうのだった。

   教室
 教室は前と後ろに引戸の出入口があった。前の入口は先生専用で、生徒は後ろの入口から出入りするように躾けられた。生徒は掃除当番の時以外、前の入口を使ってはならなかった。職員室への出入りにも姿勢を正したものである。長幼、上下、厳しい序列によって無意識のうちに上位の者に従わせる習慣を身につけさせられた。
 教室正面の壁の高い場所には、乃木希典陸軍大将の写真と辞世の和歌が額に入ってかかげられていた。高学年になって男組、女組に別れると女組には静子夫人の写真と辞世の和歌がかかげられた。登校して教室に入る時は必ずその額に一礼する。放課後下校する際もきちんと頭を下げる。折りにふれ辞世の和歌もそらんじさせられた
”うつし世を 神去りましし 大君の みあとしたいて 我は行くなり 希典”
”ゆきまして かえります日のなしと聞く 今日のみゆきに あうぞ悲しき 静子”
 日露戦争の二〇三高地戦で作戦の不手際から多くの戦死者を出してしまった最高指揮官としての責任は語られることなく、明治天皇崩御の際殉死した乃木夫妻の忠義心を讃え、尊敬の念を子供達の心にしっかりと植えつけたのである。

   教科書
 教科書は全国同じの国定教科書であった。どこの土地に転校しても教科書は同じもので変わらない。為政者に忠実な個性のない人間を育てるには、国の定めた教科書を全国で使わせねばならなかったのだ。
 一九三四年(昭和九年)改訂された修身の教科書は、忠君愛国を道徳の柱としていた。神国日本の臣民として模範になる挿話や物語の記述が多かった。授業は教育勅語の奉唱から始まる。難しい勅語も、授業の度に唱えさせられるので、高学年になると級全員が暗唱できたものである。
 歴史は神話に基づいた天皇家の物語が中心だった。歴史の時間は授業の始めに歴代天皇の名を唱える。”ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク……今上天皇”となる。私と同年代の人は今でも最初から数代の名を口ずさめるのではないかと思う。百二十四代を私はもう忘れてしまったが、当時は級友誰もが暗唱できて当たり前だった。陽の当たる天皇家の逸話のみが記され、負の部分は一切語られることはなかった。偶像崇拝によって庶民を束ね、マインドコントロールする政治支配の恐ろしさ。オウム真理教事件の時、敗戦前の天皇信仰の恐怖を改めて思い起こしたのだった。
 私より少し若い教科書墨塗り世代は貴重な体験をしたと思う。その時の教師の対応によっては、教師への信頼が失われてしまった悲しみがあったかもしれない。しかし墨で塗りつぶすことによって、時代の指導者層の危うさ、偶像崇拝の愚かさを肌で感じられた筈である。教科書は画一化されてはならない。

   おわりに
 昭和初期から敗戦まで、一般庶民は自由、人権、平等、人類愛とかは全く無縁の教育を受けていた。命を捧げて悔いないと信じていた天皇という偶像が、敗戦によって粉々に破壊された時、純真な心はどれ程深く傷ついたことだろう。生きる目的を失った虚無感、欺かれていたことへの憤り、無知であった自分への慚愧、楽しかるべき青春の一時期は、開放感と苦悩がないまぜになって重く過ぎたのだった。七十年を過ぎた今もなお、友と嘆き合う。「あの戦争さえなければ……もっと早く戦争が終わっていれば……」と。
 当時の一般庶民は、殆どの人が画一的な小学校教育を何の疑いもなく受け入れていた。政党政治が力を失い、軍部が政治を掌握するようになって、”天皇信仰”は国のすみずみにまで行き渡った。知識階級の家庭の子女は”天皇信仰”の洗脳を受けずに済んだ人もあろう。それはそれで、治安維持法でがんじがらめになった社会の中で苦しめられたに違いない。
 多くの有識者が負けると予想していた無謀な戦争に、一般庶民は何故双手を挙げて協力してしまったのか。治安維持法に触れて捕らえられた反戦思想の人を白眼視したのか。現代の人には納得し難い庶民の感情は、皇民教育の中で広く育まれたのである。
 敗戦前の学校の日常を思い起こし、それを記すことで教育の重大さを多くの人達に訴えたい。今ではバカバカしいと思われる日常茶飯事が、個人の考え方、生き方に、ひいては国の運命に、どれほど多大な影響を与えることだろう。特に幼い日から思春期までの教育環境はかけがえのない貴重なものである。
 教育によって人は人格を備えた人となる。為政者の野望で教育が暴走した時、視野の狭い思考力の乏しい人間が数多く育ってしまう。多様な価値観を認め合い、差別のない社会、生命を大切にする社会、心の豊かさが貴ばれる社会の実現に、今ほど教育のあり方が問われる時代はないと思う。戦前の教育に近付くことは決して許されない。
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