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【会員からの手記】国境の町 安東(現丹東、中国の東北地方)

国境の町 安東(現丹東、中国の東北地方)

東山セツ子

はじめに
 太平洋戦争は私個人にとって、平和な時代とは全く異なる多くの実体験をしたという点があげられる。小学校三年生の時に終戦を迎え、一年余り後に安東から引き揚げた。焦土と化した東京での生活に入り、中学生の時、ようやく日本は独立した。
 たとえ貧しく、食料不足であっても、自国の領土に住んでいるという安心感と敵の襲撃を受けないという安心感などは何にも替え難いものだ。

1.戦時中の生活
 鴨緑江の河口に、大規模な港を建設するという計画の下、大東港建設局に父が赴任したので、家族は昭和17年3月に転居した。空襲は無く、どこの軍隊にも出会わず、平穏な毎日の中、ラジオの放送だけが騒然としており、日々、大きな戦果を伝えていた。そうであるならば勝ち進んでいる筈なのに何か違うようだと感じ始めてくる。シンガポール陥落が私にとって、開戦後最初の戦果で、未だ世田谷在住の頃であった。
① 安東兜在滿國民學校(小学校)
 毎日、朝礼から始まる学校生活。遠く東京方面に向かって、皇居へ遙拝する。教室に入ってからは児童としての心構え三つを唱える。その一つに、「武士が戦に行く時の覚悟で励みます」というのがあった。どのような覚悟なのかは説明無く、よくは分からないが一生懸命努力して学習しなくてはいけないようだ。音楽の教科書は日本国内と同じものの他、満州用のものとの二種類があった。
 国語は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」から始まり、三年の一学期には、「ににぎみのみこと」の章で終戦となってしまった。スケートは体育の授業には無かったが、大会があった。スケート靴は牛皮と金属不足のため、下駄スケートが配られた。自分で紐を用意して板に結びつけて履くのだが、刃の質が悪くて、ほとんど滑らない。給食は年一度の豚汁会のみ。水道の生水は硬水なので飲んではいけない。昼食時はお茶一杯分あり、その他は持参の水筒。白墨は大変貴重で少量。現地の人の小学校では豊富に使っており、その差の大きい事に驚いた。
② 日常生活
 暖房専用のペチカには石炭を使うが、配給は11月15日からの分であり、既に寒いので早くから焚く。主食の配給は米と大豆。枝豆やトウモロコシは庭で良く育つ。野菜・魚介類・南京豆や菓子類なども東京より豊富にある。衣類用の布等は配給だ。下駄や雑貨等は国境の鴨緑江を徒歩、船、汽車で越え、日本で購入できるが、税関の検査を受ける。

2.敗戦後の社会
①8月15日を境にして
 正午の玉音放送は自宅で聴いたが、雑音で良く聞き取れない。「・・・受諾・・・」という単語を母が聞き取ったので敗戦と認識した。父は新京(現長春)におり、9月からは転校の予定だった。翌日登校となったが、それが最後の登校となり、國民學校は閉校した。後日、校庭で人民裁判があると聞いたが行かなかった。
 官庁では10ヶ月分の給料が支払われ、閉じた。やがて父は帰宅したが、庁舎には新京から南へ脱出して来た人々を受け入れ、同居生活になった。転居しなくて良かったと思った。敗戦後の生計は全て各自でたてる。商売を始めるとか、衣類・道具などを売って生計を立てるのが一般的だ。
③ 軍隊
戦時中は日本兵を含め、兵隊に出逢うことが無かったが、敗戦後には身近になった。
 ロシア兵は郊外の官舎地域にも通行し、天へ向けて空砲を放ったり、女性を探すので女性は短髪にした。決して男性には見えないのだが・・・。ある日、官舎の中の隣家にロシア兵が数人押しかけた。その家には若い男性達が数十人と主の女性一人が住んでいた。次々と男性が玄関に出て「女性はいない」と説明している様子。それを私は母や姉とともに、ひと続きの天井裏で聞いていたが、天井の板を外して覗いており、いつ登って来るかも知れないので恐ろしかった。また、18歳以上の女性で単身者は監護の仕事の為にシベリアへ送られて行った。近所に住んでいた一人は数ヶ月後に帰って来たが、既にその家族は日本へ引き揚げた後だった。
 中共兵は礼儀正しく、借用した物品はきちんと返却する。一方、各家庭には軍服のキルティングを手縫いで行う奉仕作業が課せられていた。
④ 通過・貯金
 戦時中の通過としては、日本・滿州、朝鮮の通貨が使われていた。敗戦後には支配権を握った国の通貨(軍票等)が用いられた。軍隊が撤退すると誰もが受け取らない。軍の動向についての情報には場所による差があり、まだどこそこの農家では受け取ってくれる、となるとそこへ買い物に行く有様。通貨の本質だ。赤票などは紙質や大きさ等がまちまちで、均一性にかけていたが、通貨として充分に通用していた。貨幣よりも「物」の方が確かな価値を維持できる。
 学校で貯金を扱っていたが、全額が大きいと褒められていた。終戦近くになった頃、滿州の土地を購入するように勤務先から勧められたりしていた。他国の土地を買ってどうする気なのか。帰国後まもなく、海外資産の調査があり、調査書を提出した。その内容とは直接の関係なく、年齢により、各々の金額を受け取った。

3.人民裁判と帰国
 閉院となった伝染病院の玄関前、広い階段の所で、人民裁判が行われていた。怒号の飛び交う中、子供達は側で遊んでいても叱られない。裁判中の一件が終わったある日のこと、父が自宅へ立ち寄った。これから裏山で処刑が行われるので立会人として同行するという。又とない機会だと思い、一緒に行こうと思ったが母に止められた。後で尋ねると、穴の前に立たされ、煙草一本を吸い、手縫いで目隠しされ、銃声一発で全て完了と。この件は引き揚げ業務担当の人が、自分の家族を先に帰国させたとの事。そのような状況下で我が家は引き揚げ最終日間近まで現地に残っていた。引き揚げ当日にマーチを早朝3時に、官舎の一区画を囲んでいる鉄条網の裏木戸まで迎えに来るよう、前払いで予約した。もし来なかったら、集合地まで一時間以上かかるので早めにしたのだが、定刻に来たのでほっとした。見送ってくれたのは犬のジョン。何度も飼い主の見送りをしたのだろう、木戸の外へは出ないで座っていた。
 人民裁判と同じ外階で歌を習った。「最後の決戦を出迎えしよ。・・・勝利は我等を待っている・・・」「ああインターナショナル・・・」どこで覚えたのかと、母は驚いていたが、母がこの歌を知っていたことに驚いた。

4.戦火(昭和21年10月)・真水・北緯38度線越え
戦時中に地上戦も空襲も無かった安東。世田谷区の生家は焼夷弾で家屋は消失し、二辺の板塀と屋根付きの門だけが残っていた。戦後には安東神社が焼かれ、遠方からでも夜空が明るかった記憶がある。また、引き揚げの当日は朝に荷物検査を受け、北朝鮮の帆船の漁船に乗った。夜中、船が動き出し、朝鮮側へ移動している。安東の町に火の手が上がった。12時、一段と大きな火が上がったのは変電所らしい。軍の撤退時に焼いた様子。夜が開けてから船は順に河口へ向かった。乗船した帆船は三隻が一団らしい。河口に近い方に位置していたのに出発してからは最後尾を走っているので不思議に思ったが、運航が一番上手な船だったようだ。河口近く、海に近付いた頃、鴨緑江の真水を薬缶一杯汲んだ。これが最後の真水だ。朝鮮半島の西岸沿いに船は南下する。くらげの泳ぐ海、太陽がゆっくりと西方の水平線へ沈んでいく海。
ある日台風に遭遇した。本船は帆を張った。いつもはぶらぶらしていた船員達の実に素早い身の捌きで、マストに登る人、甲鈑で帆を操る人、風向きを見極めての行動に見とれた。帰国後、この台風で多くの犠牲者が出たことを知った。帆に降った雨をドラム缶3つに貯め、乗船者にも分けてくださった。海水は辛すぎて飲めない。一日中水なしの生活は苦しい。水の必要性を痛感した。北緯38度のすぐ近くで、夜明け近くにやっと小舟に乗り移り、日の出を待って上陸した。すぐ近くにある井戸で水を飲む。このルートで帰国する人々にとって大切な井戸である。それから急な坂道を登る。一人しか通れない程の小道だ。その傍らには銃を持ったロシア兵が立っている。この辺りが北緯38度らしい。こんなにロシア兵に接近したのはこの時だけだ。

5.野宿・徒歩・倉庫生活
 38度線を越えてひと安心した。その夜は野宿だ。近隣の農家が店を出して、おにぎりを売っている。長い行列なのに母は知らん顔。少し待てという。確かに、行列はなくなり、品物を持って売り込みに来る。値段も下がり、後で炊いたので温かい。需要と供給の関係が良くわかった。羽布団の中で一夜の野宿。

6.倉庫生活
 秋晴れの一日、田圃道をひたすら歩く。道は農家の人に教えてもらい、一団となって進む。ついて行かなければそこが終着点となるから皆必死だ。体育館程度の大きな農業用倉庫で一週間程過ごした。倉庫の天井は高く、床は大地で、カマスを一枚敷いてあるが寒く、一人分の面積は身体の幅だけなので寝返りすると隣の人にその分、占領される。農家は秋の収穫時期で、麦の風選や稲抜きをしている。食料は各自で調達し、石やレンガの手造りカマドで煮炊きをする。朝鮮の貨幣が無い場合は持ち物と食料を物々交換する。

7.移動と食料
 租江から船が出るという情報が入り、海へ向かって歩くこと数時間。水辺から米軍の上陸用船艇に乗り込んだ。ここから、やっと軍の世話になり始めた訳だ。少し進んで、米軍の貨物船に乗り換えた。船は船尾が両開きになり、そこから船底へ入る。鋼鉄の床には敷物があったが固く冷たい。一人分の面積は身を横たえる分だけ。仁川港に上陸し、貨車で京城へ。
一夜停車してから南下。無蓋車でもあり、ゆっくり進む。びっしり詰めて座り、その面積のみ。時々止まって野外でトイレ。有蓋貨車の時は扉を数センチ開けて息抜きにするが、風下の人は大変だ。むしろ無蓋車の方が良い。途中、米軍から一人につき、パン一個が支給された。初めての支援食料で、釜山までには他に何の配給もない。日本の国は何もしないらしい。釜山港の倉庫に数日泊まる。予定より一日早く出港となる。もう少し港を見ておきたいとふと思った。とにかく日本の本土へ辿り着きたい。それだけで充分、というのが人々の願い。海があるので徒歩では帰れない、それが悲しい。引き揚げ船「興寧丸」の名は新宿の記念館には出ていない。何故なのか不明。釜山港から玄海灘を南下し、博多港へ。船は貨物船内に造られた二段ベッド。少しずつ貨物から人間扱いになってきた。
支給食料は乾パン、みそ汁、米軍用の大きなパイン缶等。米軍が人々の移送に関与している様子。乗組員は日本人。日本の地を踏む事が第一で、やっと12月6日に上陸。松原寮で日本の新紙幣に両替した。列車は客車。落ち着くまでは無料。帰途、箱根の旅館で一泊してから、代々木にある母の実家へ向かった。旅館は米持参の時代だった。米など持っていなかったが、白米を出してくださった。

8.小学校、中学校
 二学期も終わる頃に三年生に転入したので、教科書は自分で調達する。日本共産党の本部で揃わないものは新宿伊勢丹前の池田書店で購入した。国語の教科書は全紙の紙に印刷されており、自分で折って裁断して綴じたのだが、初めての製本だった。
 日本の歴史は教えないという時代に小学校を卒業したが、中学校の校舎のすぐ横には鉄条網が張られ、オフリミットの札が下がっていて、向こう側へ入ったら命の保証は無いという。この事実自体が現代史の一片だ。米軍の接収地はやがて東京学芸大学の敷地となった次第。
 小学校六年生の時、教室内に置かれている担任の先生用の机の上には「民主主義(上)」と「民主主義(下)」の二巻が置いてあり、休み時間に少しずつ読んでいた。上巻の方は大変興味深かった。先生方は終戦により、今までの考え方にかわって民主主義を学んでいらっしゃるのだと感じた。帰国後、真っ先に母が購入した本が六法全書であったことを思うと、大人は大変なのだなぁと感じた。
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Author:東京法律事務所憲法9条の会

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