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小学校を出ていない世代も早「傘寿」です

小学校を出ていない世代も早「傘寿」です

仲宗根 將二

 1934(昭和9)年4月2日から翌35(昭和10)年4月1日までの生まれは、この世で唯一小学校を出なかった世代である。

 明治以来の普通教育=「皇民教育」は、大日本帝国憲法と教育勅語等に基づき、尋常高等小学校によって進められたが、1941年3月廃校となり、代って翌4月から国民学校が発足した。アジア・太平洋戦争に真只中、「皇国臣民の道」の教育を一層徹底させる趣旨の改革である。敗戦2年後の1947年3月、国民学校はこの世に6年存在しただけで消滅したために、この世代は最初の1年生であるとともに最後の卒業生となって、唯一小学校を出ていない世代にされたのである。

 音楽は「ドレミ・・・」ではなく「ハニホヘトイロハ」で、敵飛行機の爆音を聞き分けるための音感教育で始まるなど、すべての教科が軍国主義一色で塗りつぶされている。初等科4年生で天皇のために命を捧げる教育勅語を暗記させられ、5年生の「国史・上」では神話を歴史として学び、歴代天皇の名を暗記させられた。

1. 敵潜水艦に脅かされて・・・

1944(昭和19)年7月、鹿児島県大島郡と沖縄県全域の老幼婦女子は九州並びに台湾疎開が閣議決定された。表向きはともかく現実的には早晩戦場となるかもしれない南西諸島で、作戦上足手まといであり、さらに軍隊の食料確保のための疎開であった。翌8月から始まった疎開は、沖縄県からはおよそ10万人が制海権も制空権もない危険な海を輸送船(あるいは汽帆船)で、九州並びに台湾へ渡っている。九州への第一陣の対馬丸は七島灘で米潜水艦に撃沈され、学童780人を含む1485人が犠牲となった。

当時は公表されなかったが、そのせいであろう、理由も知らされず、宮古からの第三陣の輸送船は平良港沖合でほぼ一週間ほど碇泊し、那覇でもほぼ一週間身一つで旅館泊まりである。ここで沖縄本島組と合流して船団を組み、さらに本部半島沖合でほぼ一週間碇泊したのちの出発であった。敵潜水艦の動向を見極めるために各所での長期碇泊であったようだ。

現海洋博物記念公園のある本部半島沖合を離れた夜は、全員救命衣を着装して甲板に待機させられ、嵐のように大荒れの七島灘では夜通し爆雷の轟音と、すさまじい波しぶきを浴びながらまんじりともせず一夜を過ごした。翌日無事鹿児島湾に入り、その翌日の下船となったが、平時なら二昼夜の航海をおよそ一ヶ月近くの長旅になった。国民学校初等科4年生の8月~9月のことである。

2.「神話」を歴史として学ぶ

 疎開先の国民学校では男の先生はほとんど戦場に招集、あるいは軍需工場に動員されて動員されて大方女性の先生ばかりであった。校庭の大部分は食糧確保のための耕地と化しサツマ芋や大根などが植えられていた。飛行機の燃料にするといって松根油の搾取作業や、示現流の太刀木打ち等の訓練が、飢えと寒さに震えながら繰り返された。これらはすべて米軍の空襲の合間をぬっての作業であり、特訓であった。

1945年8月11日、敗戦4日前、米軍機の猛爆撃で全教室は市街地とともに全失した。戦後は兵舎を解体したすき間だらけのバラック教室で再開した。
とある日、意識調査のようなものがあった。設問の一つに、世界で一番偉い人は誰と思うかというのがあった。大方はトルーマン、チャーチル、マッカーサーなどを書いたようだ。週明けの初めての全校集会が吹きさらしの校庭で開かれた。校長が烈火の如く怒った。日本は戦争に負けはしたが、世界の一等国であることに変わりはない、諸君はいつから劣等国民になったか、世界で一番偉いのは天皇陛下だ、とすごい剣幕であった。

どちらが先であったか、いささか記憶は曖昧だが、同じ頃教科書の墨塗りをさせられた。軍国主義、超国家主義とみなされる記述について、何頁の何行目から何行目までと教師の指示で真っ黒く墨を塗るのである。6年生では、「国史、下」に代わって「くにのあゆみ」を教わった。

3. あたらしい憲法のはなし

 1947年4月、「六・三制」の施行で、国民学校最後の卒業生は、全員入学の新制中学校最初の1年生となった。2学期に入って、文部省発行の「あたらしい憲法のはなし」を学んだ。憲法の三原理である「民主主義」「国際平和」「主権在民」などだが、とくに平和主義と「前文」が強調されていたように記憶している。
 新しい憲法は国民みんなでつくった、みなさんがつくったものだ、兵隊も軍艦も飛行機など、およそ戦争するための一切持たない、国際間のもめごとはつねに話し合いで解決する、いつか憲法を変える時があっても「前文」の考え方と違った変え方をしてはいけないなどである。体罰がなくなり、正副級長も教師の指名でなく選挙で選ばれるようになり、生徒会が発足するなど変化が始まった。

4.「施政権」のみの返還

 1951年9月(翌52年4月28日発効)、講和条約で日本は北緯29度以南の奄美・沖縄と小笠原諸島を米軍にゆだねた。沖縄県は国内唯一の地上戦「沖縄戦」で、軍隊よりも多い十数万人の一般県民の命が失われ、引き続き米軍の全面占領下に置かれたのだ。米軍はさらに「銃剣とブルドーザー」で県民を追い出して土地を強奪し、軍事基地を拡大強化していった。県民は「土地を守る四原則」― ー括払い反対、適正補償、損害賠償、新規摂取反対― を堅持し、島ぐるみの闘争を展開した。

 1960年4月28日、自民党を除くすべての政党、労組、民主団体を結集して、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成された。「日本国憲法の下へ」が究極のスローガンであり、その間における県民の命と暮らしに関わるあらゆる当面する課題が取り組まれている。米軍(人)犯罪の糾弾はもとより、「主席公選」をはじめ自治権拡大、B52爆撃機撤去、原潜「寄港」阻止、毒ガス撤去、ベトナム戦争反対、「教公二法」阻止、国政参加要請など。「沖縄を返せ」は全国民的要求となり、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国連帯会議は、沖縄を分断した「4.28」を「沖縄デー」と決議して連帯を表明するなど国際問題に発展していった。

 1972年5月15日、祖国復帰(=沖縄返還)は実現した。しかし米軍基地はそのままで「施政権」のみの返還であり、県民要求にはまるで遠いものであった。返還当日、復帰協は那覇、宮古、八重山の3会場で「自衛隊配備反対、軍用地契約拒否、基地撤去、安保廃棄、沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒、5,15県民総決起大会」を開催して抗議している。

5. 普天間は閉鎖・撤去

 あれから40余年、諸悪の根源たる米軍基地は国土の0.6%の沖縄県に74%も集中し、米軍(人)による事件、事故は後を絶たない。

 かつて佐藤総理は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本にとって戦後は終わっていない」と言ったが、現状は「米軍基地がなくならない限り戦後は終わらない」どころか「沖縄県は今も戦中だ」といっても過言ではない。40余年前の県民総決起大会の名称は、内閣名を変えるだけで今も立派に通用することであろう。

 米軍言いなり、財界言いなりの安倍政権は、沖縄県民の基地負担の軽減と言いながら、県内新設に固執している。「オール沖縄」の要求は、2013年1月、政府に提出した県内全ての市町村長、同議会議長、県議会議長らの署名捺印した、普天間基地の辺野古移設反対、オスプレイ撤去、普天間基地の閉鎖、撤去を要請する「建白書」に明確に示されている。

 辺野古をかかえる名護市では、2010年の市長選挙と市議選挙、本年1月の市長選挙と9月の市議選挙で、4回に渡り新基地建設について反対側が圧勝している。普天間基地の辺野古への建設反対はもはや異論の余地なく鮮明にされているのである。
 小学校を出ていない世代も今年は「傘寿」とやらである。残された時間は限られているが、今置かれた所で、さらに連帯の輪を広げ、「9条」を脅かすあらゆる事柄に相応に対処していく思いを新たにしている。

 






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