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1945年の夏

東京法律事務所9条の会では、会10周年記念行事として、戦争体験の手記を募集しています。
寄せていただいた手記を、随時ブログでアップしていく予定です。
尾山法律事務所の尾山宏先生から早速手記をいただいたので、以下にご紹介します。

*******************************************
        
弁護士   尾 山  宏

 1945年8月15日、私は旧制小倉中学3年生であった。
 2年生の2学期の初めから、われわれの学年は、勤労動員が始まった。
 早いクラスは2学期の初めから。動員先は砲兵工廠(武器、弾薬を製造する工場)であった。紫川(むらさき川)のほとりの、大変広い敷地にあった。戦局が悪化すると、工場は空襲を避けるために大分県の山の中に疎開した。仲間たちも大分県にやられた。
 そのなかに、岡崎君というクラスメートがいた。1年の時は同じクラスだったが、2年になってクラス替えになり、彼のクラスは砲兵工廠に動員されたのである。食料状態はきわめて悪く、彼は極度の栄養失調に陥った。連絡を受けた彼の父親――門司の内科の開業医であったが――は、息子を迎えに行った。しかし彼は帰りの汽車の中で、父の膝を枕にして亡くなってしまった。
 勤労動員中に、他に2人の級友が亡くなった。
 いずれも、みじめで、あわれな死であった。

 小倉はきわめて早い時期にB29の空襲にあった。
 45年3月10日の東京大空襲よりずっと前である。
 この時は、焼夷弾攻撃ではなく、爆弾による攻撃であった。
 焼夷弾も恐いのであろうが――わたしは直に経験したことはない――爆弾も恐い。B29の進行方向に向って等間隔で7,8弾落とされる。
 自宅の庭に防空壕を掘っていて、――幅1㍍、長さ2㍍、深さ1㍍ぐらい。大人が中に入りしゃがんで頭が隠れるぐらい――それに親子4人(父、母、姉、私)が入るのである。上に、持ちだした畳を2枚重ねにして、2列に並べた。それでも、直撃弾でない限り命は守れた。しかし、近くに爆弾が落ちると、壕が揺れ、壁の土がボロボロ崩れた。母が思わず「南無阿弥陀仏」と唱えた。咄嗟に口をついて出た言葉だろう。わたしも次は自分のところに落ちるのではないかと思い、生きた心地はしなかった。
 翌朝、100メートルとは離れていない弁護士の家が直撃弾をくらったことが分かった。一家5人全滅。掘り出しに行ったら、万歳をしているように、手から先に出てきたという。また、長さ30センチくらいの鉄片が、わが家の裏木戸(防空壕のすぐ側)をぶち抜いて庭に飛び込んでいた。あんなものが頭や胸に当たれば即死である。腹に当たっても死は免れなかっただろう。

 1945年に入ってからと思う。わが家が強制疎開にあった。1週間で立ち退けというのである。恐らく軍の命令があったのであろう。道を拡幅して、焼夷弾攻撃を受けたとき、延焼をふせぐためだという。しかしそんなことで、焼夷弾攻撃の際の延焼を防げるわけがない。当時の軍の考えは、万事がこの類であった。なにしろアメリカ軍が上陸してきたら、竹槍で闘うのだと称して、女性に竹槍の訓練をさせていた。馬鹿馬鹿しい。
 わたしたち一家は、小倉の市街地から2里ほど奥まった、中谷という村の農家に疎開したのである。
 わたしたち中学3年生は、2度飛行場建設に駆り出された。
 一度目は、玄界灘に面した見渡す限り砂丘というところであった。その高いところに行って、スコップで砂を掘ってトロッコに積み、トロッコを押して、低いところに砂を捨てる、それを終日繰り返していた。
 お寺に合宿させられていて、夕方になると、クラスの仲間みんなで海岸の岸壁に坐って、藤村の”椰子の実”を歌った。

   名も知らぬ遠き島より
   流れ寄る椰子の実一つ
      ・ ・ ・ ・ ・ ・
      ・ ・ ・ ・ ・ ・
   海の日の沈むを見れば
   激(たぎ)り落つ異郷の涙

 この歌の歌詞のように、大きな太陽が玄界灘の彼方に沈もうとしていた。
 もう一度は、後に曽根空港として、戦後一時民間空港になっていた(プロペラ機の時代)空港作りであった。今の北九州空港は海の上にある。

 わたしの勤労動員先は、初めは東芝工場、後に東洋陶器に移された。動員中に一度、門司の空襲跡の整理にかり出された。今の門司港辺りから先は、一面の焼け野原であった。九軌(戦後の西鉄)の路面電車のレールが上下に大きく彎曲していた。よほどの高熱だったのだろう。わたしたちは門司までトラックで運ばれたに違いないのだが、トラックに乗った記憶はなくなっている。焼かれた直後に行ったのに、不思議なことに焼死体には一体も出会わなかった。後年、ずっと後まで、そのことが不思議でならなかった。
 比較的最近になって、その理由を知った。遺体処理には、警察、消防、軍隊はもちろん、受刑者まで動員したということである。東京大空襲の後もそうだったようだ。大きな穴をいくつも掘って、遺体をどんどん投げ込んで、土をかけて埋めたのだという。荼毘に付す余裕などなかったのである。

 敗戦が近づいた頃、陣地作りに二度かり出された。二度とも小倉と門司の境に近い所(延命寺という)である。
 この辺りは丘が海岸のすぐ近くまで張り出している。この丘に海岸線に沿って横に洞窟を掘るのである。大人が立ってゆうゆう歩けるほどの高さ、大きさは今の乗用車が十分通れるくらいの広さである。
 休憩時間になると、わたしたちは、そばの丘の上に座って休んだ。右には関門海峡。真向かいには六連(むつれ)島。その左は玄界灘。
 ふと、わたしはこんな光景を想像した。
 六連島から玄界灘にかけて、アメリカの機動部隊が埋め尽くしている。そこから上陸用舟艇が、それこそ雲霞のごとく岸をめがけて押し寄せてくる。
 「その時は俺が死ぬときだ」
と思った。
 14歳の夏のことである。


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