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敗戦前後(高田昭治)

敗 戦 前 後
                               高 田 昭 治
 
わたしは1937年生まれで、77歳になります。

当時、満州国と言っていましたが、わたしはそこで生まれ、父がその満州国の逓信省に勤めていた関係で、当時の新京市(現在の長春市)洪凞街というところにあった官舎に住んでいました。第2次世界大戦に入って2年目の1943年に、近くの春光国民学校(現在の小学校にあたる)に入学しました。この学校は日本人だけが入れる公立の学校だったのです。幼い自分は、日本ではない国で、日本人が我が物顔にふるまい、日本人だけの学校に入るということに全く疑問を持っていませんでした。

思い出すのは、物資不足がだんだんひどくなってきて、スケート靴がくじ引きの配給となり、それにあたった生徒はわずかで、ほとんどの生徒は、冬はスケートリンクになる運動場に椅子などを持ち出してきて、それを滑らせながら遊んだりしていたことです。また、生徒たちを二つのグループに分けての、戦争ごっこ・模擬戦闘を行わせると行った軍事教育です。

そうこうしているうちに1945年の8月になり、ソ連が参戦して侵攻してきたというので、急にあわただしくなりました。父は招集されて通化というところに行き、残された官舎の人々は、上からの命令で疎開することになり、慌ただしく行った先は、奉天(現在の瀋陽)というところで、駅近くのホテルが避難先になっていました。疎開するときは、母は女手一つで自分と弟を連れて大変な苦労をしたと聞いています。

食事は薄いコウリャンのおかゆで、ほとんど皆が下痢状態になりました。7歳年下の弟は、やっと歩けるようになっていたのですが、栄養失調状態の中で、歩けなくなってしまいました。弟はその後医者も見放すほど弱っていましたが、なんとか回復しました。現在は郷里で元気でやっています。ただ、戦後にもう一人の弟が生まれたのですが、母親が栄養不良状態で、最初から弱く、まもなく死んでしまいました。

8月15日は放送を聞くという手段もなく、ホテルの階段の踊り場にぽっダム宣言受諾のことを記したお知らせが張り出され、それを見て涙を流している人もいたことを覚えています。自分は、もちろんその内容を知ることはなく、なにがあったのだろうと思ったのですが、あとから「あれは戦争が終わったという告示だったのだよ」と教えてもらったわけです。その奉天のホテルにいても先行きが見えないということで、いったん、新京に戻ることになり、やっと汽車に乗ることができ、南新京駅というところで下車して、とぼとぼ歩いているところに、一足先に除隊していた父が迎えに来てくれたときは、やっと助かったといううれしさでした。あとから聞いたころによると、父も危うくシベリア送りになるところだったそうです。

進駐してきたソ連兵には程度のわるいものもいて、女性は顔に墨を塗ったり大変苦労したようです。わが家にもソ連兵がやってきて、腕時計を出せなどとやられたこともありました。春光国民学校はソ連軍の宿舎になり、学校は生徒たちの家を回り持ちで細々と続いていました。それも長い間ではなく、学校は不審火で火事となり、ソ連兵は撤退したので、焼け跡の建物の一部を使っての学校再開となりました。

日本人は一斉に失業状態に成り、わが家も道ばたに露店を出したり、なんとか細々と暮らしていました。とにかく、食べることが毎日の課題でした。その年の冬は石炭も入手困難になり、水道も止まって戸外の井戸から水を汲み上げなければならず、寒さで井戸の周囲は凍って、それこそ水くみも命がけという状況でした。

そして敗戦1年後の1946年8月にコロ島経由で日本への引き揚げとなるのですが、この時の思い出も重たいものがあります。この敗戦の前後から、もう少し大きくなるまでの悲惨な記憶が、自分の原点となったと思っています。民衆を苦しみに追いやる戦争を起こさせてはなりません。最近の安部内閣の動きには危険なものを感じます。憲法9条を守ると言う大きな運動で、おかしな動きを封じていきましょう。



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日本国憲法(渡辺和子)

                                    
【日本国憲法】 
新制中学3年生の社会科の時間に、緑色の表紙の「日本国憲法」が配られ、それを暗記するように言われた時、ちゃんとここに書いてあるのに「どうして覚えなくてはいけないのか?」とその先生の気が知れないとイヤになりました。今は亡きその先生の「新憲法」を手にした喜びをひしひしと思い、高齢、要介護の身で行動は出来ませんが、話すことは出来るので、「9条の会」の一員として語りかけることを続けています。

【黒塗り教科書】
国民学校に入学し、日本は「神の国」と教えられて真面目に信じていた子供が、敗戦で今まで教えられたことは間違いだと墨を塗らされた時のショックは大変なものでした。人の言うことを自分で確かめなければいられない人間になりました。
(学童疎開のこと、焼夷弾の落ちる中を逃げたこと、ひもじかったことなど色々ありますが、目が思うようではなくかけないのが残念です)

渡 辺 和 子       
 

大戦下・十四才の思い出

 大戦下・十四才の思い出
                       上 村  力

昭和二十年二月十五日 飯山地方は昨年暮れからの大雪であり其の日も朝から雪降りである。

村立太田尋常高等小学校の体操場に全校生徒約六〇〇人が集まり壇上に、三月二十日の卒業を待たずにして受持の先生が選抜された七人の十四才の(高等科二年生)男子生徒の送行会が開かれた。私はその団の代表として挨拶を致しました。

何を言って挨拶したかは憶えて居ないが、「甲種食糧増産隊として国のため食料増産隊として頑張って出発します、在校生徒も頑張って下さい」と挨拶をして、六年男子生徒が私達の荷物を橇に乗せて飯山線は大雪のため飯山以北不通になり、飯山駅まで十六キロの雪道を送って下さいました。大雪の連続積雪二米余の雪道を朝八時に出発して午後三時半頃やっと飯山の町にたどり着き、飯山駅から長野への汽車が雪のため更に不通明日開通するとの事、やむを得なく飯山館さんに泊まる事になる。

翌日 飯山線が除雪され(ラッセル車が立ち往生の中人力で)ようやく長野駅から、小諸駅へ小海線に乗り日本一標高の高い小海駅に夜の七時頃着く事が出来た。

私達を送ってくれた橇部隊の同級生は、雪の中死物狂いで雪だるまになって太田小学校へたどり着いたそうです。
子供心に私達は旅行気分で大雪の飯山から寒いが雪の少ない野辺山高原に着き、新天地に降り立ちうきうきの気持ちで宿舎の門を入ると突然怒号が響き「貴様らたるんでいる」と聞こえた途端にホッぺタにピンタが飛んできた、何も知らない十四才の私達に取ってこれはえらい所へ来てしまったと只々おろおろするばかりでした。
朝薄暗いうちの起床点呼、零下二十度の厳寒の中で軍隊同様の訓練が始まるのであります。

宿舎は真中に土間の通路あり藁ムシロ敷一枚 外壁は板張り一枚 雪に吹雪が吹込んで来て外気と同様の気温、約八十坪の通路にダルマストーブが一個で薪は生薪で雪原の立ち木の枝を拾い集めての燃料であり、良く燃えないので煙が立ち込める状況でありました。

戦時下 着る物は木綿が主流で毛糸の暖かい着物がほとんど手に入ない時代でありました。
十四才の私達はほとんど凍傷を患い、歩くと足の指先やかかとが痛く歩行も出来ない状況であり、その上もたもたしていると平手打ちがとんで来るのであります。

軍事訓練と言っても訓練機材ない戦争末期 竹ヤリの毎日の軍事訓練で雪の野原の上の歩行跳び訓練。更に精神訓練は軍人勅語・教育勅語 五ヶ条の御誓文の暗記であります、一人一人復唱させられ暗唱が出来ないと二人一組で対交ピンタ 加減して相手を打つと班長小隊長からの命令で全員での対交ピンタであります。十四才の私達に取って毎日が地獄の用な日々であり、伸び盛り、食い盛りの私達は大豆半分麦半分の食事は、凍傷と栄養失調で次から次へと落伍者が出る始末であり、死亡者も出た程でありました。

厳しい厳寒の地長野県野辺山での訓練も春になり訓練場所が学徒出陣の空き校舎、地元中野町の実業中学校に移転して 六月にはサイパン島が陥落し全島全員玉碲の報がありいよいよ本土決戦への報道が流された。私達十四才の食料増産部隊も沖縄戦線へとの掛け声のもと、軍事訓練が一層気合のかかったものになり、沖縄戦線への選抜隊の編成もされる噂が飛び交うなぞ日増し十四才の小生に取って胸が躍り毎日落ち着かない日が続きました。

幸い八月十三日よりお盆休暇となり、八月十五日の玉音放送はラジオの少ない村だけに、近所のお宅の縁先で聞き何となく日本が負けたとの情報を察知する事が出来ました。
注(衣服にシラミ、南京虫が寄生していて着ていた衣類を脱ぎ、庭先で熱湯の釜で殺虫してから家に入れてもらったそんな帰省の状況でありました。)

私達農兵隊(隊の略称)はどうなるかとの心配がありましたが 一先ず隊へ帰るよう連絡が役場からあり八月二十五日に帰隊し軍事訓練がなくなり、食料増産への日課に戻り隊長、小隊長は学校の先生在職の方々ですので少々の学課も教える時間も出来てきましたが、その方々の説明では三月まで此の隊に在籍せれば中学校一年の教科の課程を修了出来るとの事でした。しかし三月中旬になり隊が解散して役場と学校へ挨拶に行き「只今隊が解散になりましたので帰りました」挨拶致した所 開口一番何グズグズしてたのだ戦争は終ったのになぜ早く帰って来ないんだ、𠮟り飛ばされて私達は取り付く所もなく只オロオロするばかりでした。
事の経過はアメリカ軍駐留に依り学校制度が変わる、君達の行く学校は廃止になるとの事 中学校一年生の課程を修了したと思っていた私達に取って目の先が眞暗になってしまいました。

私はこの時程世の中や学校の先生を不信に思った事はありませんでした。
私達を強性的に農兵隊へ送り出した先生、役場の話であります。

以来 多感な少年、青年期に取って世間に対し抵沆感を強く思う様になるのであります
村役場や学校の先生方が戦争に勝つため国のためと半ば強制的に農兵隊へと送り出して、戦争が終ったから無責任に我々の力ではどうにもならないと言う村役場や学校の先生方を許せない気持ちが日増しに強くなるのでありました。

思い返すと終戦と同時に農兵隊を解放するべきでなかったかと戦後七十年の今日 占領軍に依る学制改革の始まる前に旧中学校に編入出来たのにと今思い、悔しき思い出として残るのであります。

八十四才になる人生。私の生涯を狂わせた少年期十四才の苦しい思い出での記録でございます。
                      

丸木美術館「原爆の図」を見て

丸木美術館「原爆の図」を見て
                               平島千恵子

 今年の3月「つくば九条の会」ピースツアーで、東松山市の丸木美術館と蔵の町川越市に行きました。
 丸木美術館では、各地で展示会を開催しているため「原爆の図」全作品が揃う事はめったにないとの事でしたが、私達は15部作品のうち14部を見ることができました。私の中に残影としてあった「原爆の図」が目に飛び込んできた時、思わず涙が溢れ、60数年前の記憶が蘇ってきました。

【戦争、防空壕の恐怖】
1939年、東京の中野区で生まれた私は3月10日の東京大空襲もここで体験しました。当時6歳、小学校入学の年齢でした。戦争が激しさを増し、毎晩のように鳴るサイレンと空襲警報、その度に一人で防空壕に入らなければなりませんでした。
母は、弟を出産したばかりで身動きが取れず、父も警防団の仕事で家にはおりませんでした。真暗闇の中、手探りで入る防空壕は6歳の私にはとても恐怖でした。

【3月10日、東京大空襲】
真っ赤な空、ものすごい熱風、風に飛ばされてきた黒焦げの着物の切れ端、柄がはっきり分かるものもありました。東京は危ないと判断した父は、5月半ば、新潟県の長岡に私たちを疎開させました。両親の実家です。
疎開した3日後、東京の我が家は空襲で全焼し、疎開先の長岡も8月1日から2日の空襲で焼け野原となりました。あの凄まじい炎と逃げ惑う人々の姿が今でも脳裏に焼き付いています。

【終戦でやっと学校に】
玉音放送で終戦が告げられ、ようやく小学校に通えるようになりました。教室は疎開した子供でいっぱいとなり、黒板の下で先生の話を聞いていました。机も椅子も足りません。本もノートもありません。先生がガリ版刷りしたわら半紙での授業でした。先生たちも一生懸命でした。それでも空襲警報もサイレンも鳴らない安心感が教室にはありました。

【終戦から7年「原爆の図」との出会い】
 1952年6月、長岡市立坂の上小学校で「原爆の図」展が開催されました。中学一年生の時です。担任であった渡辺先生に引率されて見に行きました。丸木夫妻が描いた「原爆の図」は当時3部作まで完成し、全国各地で巡回展が開催されていました。
 初めて見た「原爆の図」にもの凄いショックを受けました。引率して下さった渡辺先生は、一学期だけの担任で、その後教職員組合の専従になられたと聞きました。短期間の担任でしたが先生は私達に、戦争の愚かさや悲惨さを教えてくださいました。私の平和に対する考え方の原点となっています。

【憲法9条】
 安倍内閣は、集団的自衛権行使を容認し、海外で戦争する国につくり変えようとしています。憲法9条のもとで「戦争をしない」と誓った日本の国のあり方を勝手に作り変えるなど、許されることではありません。
 戦争を体験した一人として、子供や孫たちが再び戦争に巻き込まれることのないよう憲法9条を守り、平和の大切さ、命の大切さを伝えていきたいと思います。

【会員からの手記】国境の町 安東(現丹東、中国の東北地方)

国境の町 安東(現丹東、中国の東北地方)

東山セツ子

はじめに
 太平洋戦争は私個人にとって、平和な時代とは全く異なる多くの実体験をしたという点があげられる。小学校三年生の時に終戦を迎え、一年余り後に安東から引き揚げた。焦土と化した東京での生活に入り、中学生の時、ようやく日本は独立した。
 たとえ貧しく、食料不足であっても、自国の領土に住んでいるという安心感と敵の襲撃を受けないという安心感などは何にも替え難いものだ。

1.戦時中の生活
 鴨緑江の河口に、大規模な港を建設するという計画の下、大東港建設局に父が赴任したので、家族は昭和17年3月に転居した。空襲は無く、どこの軍隊にも出会わず、平穏な毎日の中、ラジオの放送だけが騒然としており、日々、大きな戦果を伝えていた。そうであるならば勝ち進んでいる筈なのに何か違うようだと感じ始めてくる。シンガポール陥落が私にとって、開戦後最初の戦果で、未だ世田谷在住の頃であった。
① 安東兜在滿國民學校(小学校)
 毎日、朝礼から始まる学校生活。遠く東京方面に向かって、皇居へ遙拝する。教室に入ってからは児童としての心構え三つを唱える。その一つに、「武士が戦に行く時の覚悟で励みます」というのがあった。どのような覚悟なのかは説明無く、よくは分からないが一生懸命努力して学習しなくてはいけないようだ。音楽の教科書は日本国内と同じものの他、満州用のものとの二種類があった。
 国語は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」から始まり、三年の一学期には、「ににぎみのみこと」の章で終戦となってしまった。スケートは体育の授業には無かったが、大会があった。スケート靴は牛皮と金属不足のため、下駄スケートが配られた。自分で紐を用意して板に結びつけて履くのだが、刃の質が悪くて、ほとんど滑らない。給食は年一度の豚汁会のみ。水道の生水は硬水なので飲んではいけない。昼食時はお茶一杯分あり、その他は持参の水筒。白墨は大変貴重で少量。現地の人の小学校では豊富に使っており、その差の大きい事に驚いた。
② 日常生活
 暖房専用のペチカには石炭を使うが、配給は11月15日からの分であり、既に寒いので早くから焚く。主食の配給は米と大豆。枝豆やトウモロコシは庭で良く育つ。野菜・魚介類・南京豆や菓子類なども東京より豊富にある。衣類用の布等は配給だ。下駄や雑貨等は国境の鴨緑江を徒歩、船、汽車で越え、日本で購入できるが、税関の検査を受ける。

2.敗戦後の社会
①8月15日を境にして
 正午の玉音放送は自宅で聴いたが、雑音で良く聞き取れない。「・・・受諾・・・」という単語を母が聞き取ったので敗戦と認識した。父は新京(現長春)におり、9月からは転校の予定だった。翌日登校となったが、それが最後の登校となり、國民學校は閉校した。後日、校庭で人民裁判があると聞いたが行かなかった。
 官庁では10ヶ月分の給料が支払われ、閉じた。やがて父は帰宅したが、庁舎には新京から南へ脱出して来た人々を受け入れ、同居生活になった。転居しなくて良かったと思った。敗戦後の生計は全て各自でたてる。商売を始めるとか、衣類・道具などを売って生計を立てるのが一般的だ。
③ 軍隊
戦時中は日本兵を含め、兵隊に出逢うことが無かったが、敗戦後には身近になった。
 ロシア兵は郊外の官舎地域にも通行し、天へ向けて空砲を放ったり、女性を探すので女性は短髪にした。決して男性には見えないのだが・・・。ある日、官舎の中の隣家にロシア兵が数人押しかけた。その家には若い男性達が数十人と主の女性一人が住んでいた。次々と男性が玄関に出て「女性はいない」と説明している様子。それを私は母や姉とともに、ひと続きの天井裏で聞いていたが、天井の板を外して覗いており、いつ登って来るかも知れないので恐ろしかった。また、18歳以上の女性で単身者は監護の仕事の為にシベリアへ送られて行った。近所に住んでいた一人は数ヶ月後に帰って来たが、既にその家族は日本へ引き揚げた後だった。
 中共兵は礼儀正しく、借用した物品はきちんと返却する。一方、各家庭には軍服のキルティングを手縫いで行う奉仕作業が課せられていた。
④ 通過・貯金
 戦時中の通過としては、日本・滿州、朝鮮の通貨が使われていた。敗戦後には支配権を握った国の通貨(軍票等)が用いられた。軍隊が撤退すると誰もが受け取らない。軍の動向についての情報には場所による差があり、まだどこそこの農家では受け取ってくれる、となるとそこへ買い物に行く有様。通貨の本質だ。赤票などは紙質や大きさ等がまちまちで、均一性にかけていたが、通貨として充分に通用していた。貨幣よりも「物」の方が確かな価値を維持できる。
 学校で貯金を扱っていたが、全額が大きいと褒められていた。終戦近くになった頃、滿州の土地を購入するように勤務先から勧められたりしていた。他国の土地を買ってどうする気なのか。帰国後まもなく、海外資産の調査があり、調査書を提出した。その内容とは直接の関係なく、年齢により、各々の金額を受け取った。

3.人民裁判と帰国
 閉院となった伝染病院の玄関前、広い階段の所で、人民裁判が行われていた。怒号の飛び交う中、子供達は側で遊んでいても叱られない。裁判中の一件が終わったある日のこと、父が自宅へ立ち寄った。これから裏山で処刑が行われるので立会人として同行するという。又とない機会だと思い、一緒に行こうと思ったが母に止められた。後で尋ねると、穴の前に立たされ、煙草一本を吸い、手縫いで目隠しされ、銃声一発で全て完了と。この件は引き揚げ業務担当の人が、自分の家族を先に帰国させたとの事。そのような状況下で我が家は引き揚げ最終日間近まで現地に残っていた。引き揚げ当日にマーチを早朝3時に、官舎の一区画を囲んでいる鉄条網の裏木戸まで迎えに来るよう、前払いで予約した。もし来なかったら、集合地まで一時間以上かかるので早めにしたのだが、定刻に来たのでほっとした。見送ってくれたのは犬のジョン。何度も飼い主の見送りをしたのだろう、木戸の外へは出ないで座っていた。
 人民裁判と同じ外階で歌を習った。「最後の決戦を出迎えしよ。・・・勝利は我等を待っている・・・」「ああインターナショナル・・・」どこで覚えたのかと、母は驚いていたが、母がこの歌を知っていたことに驚いた。

4.戦火(昭和21年10月)・真水・北緯38度線越え
戦時中に地上戦も空襲も無かった安東。世田谷区の生家は焼夷弾で家屋は消失し、二辺の板塀と屋根付きの門だけが残っていた。戦後には安東神社が焼かれ、遠方からでも夜空が明るかった記憶がある。また、引き揚げの当日は朝に荷物検査を受け、北朝鮮の帆船の漁船に乗った。夜中、船が動き出し、朝鮮側へ移動している。安東の町に火の手が上がった。12時、一段と大きな火が上がったのは変電所らしい。軍の撤退時に焼いた様子。夜が開けてから船は順に河口へ向かった。乗船した帆船は三隻が一団らしい。河口に近い方に位置していたのに出発してからは最後尾を走っているので不思議に思ったが、運航が一番上手な船だったようだ。河口近く、海に近付いた頃、鴨緑江の真水を薬缶一杯汲んだ。これが最後の真水だ。朝鮮半島の西岸沿いに船は南下する。くらげの泳ぐ海、太陽がゆっくりと西方の水平線へ沈んでいく海。
ある日台風に遭遇した。本船は帆を張った。いつもはぶらぶらしていた船員達の実に素早い身の捌きで、マストに登る人、甲鈑で帆を操る人、風向きを見極めての行動に見とれた。帰国後、この台風で多くの犠牲者が出たことを知った。帆に降った雨をドラム缶3つに貯め、乗船者にも分けてくださった。海水は辛すぎて飲めない。一日中水なしの生活は苦しい。水の必要性を痛感した。北緯38度のすぐ近くで、夜明け近くにやっと小舟に乗り移り、日の出を待って上陸した。すぐ近くにある井戸で水を飲む。このルートで帰国する人々にとって大切な井戸である。それから急な坂道を登る。一人しか通れない程の小道だ。その傍らには銃を持ったロシア兵が立っている。この辺りが北緯38度らしい。こんなにロシア兵に接近したのはこの時だけだ。

5.野宿・徒歩・倉庫生活
 38度線を越えてひと安心した。その夜は野宿だ。近隣の農家が店を出して、おにぎりを売っている。長い行列なのに母は知らん顔。少し待てという。確かに、行列はなくなり、品物を持って売り込みに来る。値段も下がり、後で炊いたので温かい。需要と供給の関係が良くわかった。羽布団の中で一夜の野宿。

6.倉庫生活
 秋晴れの一日、田圃道をひたすら歩く。道は農家の人に教えてもらい、一団となって進む。ついて行かなければそこが終着点となるから皆必死だ。体育館程度の大きな農業用倉庫で一週間程過ごした。倉庫の天井は高く、床は大地で、カマスを一枚敷いてあるが寒く、一人分の面積は身体の幅だけなので寝返りすると隣の人にその分、占領される。農家は秋の収穫時期で、麦の風選や稲抜きをしている。食料は各自で調達し、石やレンガの手造りカマドで煮炊きをする。朝鮮の貨幣が無い場合は持ち物と食料を物々交換する。

7.移動と食料
 租江から船が出るという情報が入り、海へ向かって歩くこと数時間。水辺から米軍の上陸用船艇に乗り込んだ。ここから、やっと軍の世話になり始めた訳だ。少し進んで、米軍の貨物船に乗り換えた。船は船尾が両開きになり、そこから船底へ入る。鋼鉄の床には敷物があったが固く冷たい。一人分の面積は身を横たえる分だけ。仁川港に上陸し、貨車で京城へ。
一夜停車してから南下。無蓋車でもあり、ゆっくり進む。びっしり詰めて座り、その面積のみ。時々止まって野外でトイレ。有蓋貨車の時は扉を数センチ開けて息抜きにするが、風下の人は大変だ。むしろ無蓋車の方が良い。途中、米軍から一人につき、パン一個が支給された。初めての支援食料で、釜山までには他に何の配給もない。日本の国は何もしないらしい。釜山港の倉庫に数日泊まる。予定より一日早く出港となる。もう少し港を見ておきたいとふと思った。とにかく日本の本土へ辿り着きたい。それだけで充分、というのが人々の願い。海があるので徒歩では帰れない、それが悲しい。引き揚げ船「興寧丸」の名は新宿の記念館には出ていない。何故なのか不明。釜山港から玄海灘を南下し、博多港へ。船は貨物船内に造られた二段ベッド。少しずつ貨物から人間扱いになってきた。
支給食料は乾パン、みそ汁、米軍用の大きなパイン缶等。米軍が人々の移送に関与している様子。乗組員は日本人。日本の地を踏む事が第一で、やっと12月6日に上陸。松原寮で日本の新紙幣に両替した。列車は客車。落ち着くまでは無料。帰途、箱根の旅館で一泊してから、代々木にある母の実家へ向かった。旅館は米持参の時代だった。米など持っていなかったが、白米を出してくださった。

8.小学校、中学校
 二学期も終わる頃に三年生に転入したので、教科書は自分で調達する。日本共産党の本部で揃わないものは新宿伊勢丹前の池田書店で購入した。国語の教科書は全紙の紙に印刷されており、自分で折って裁断して綴じたのだが、初めての製本だった。
 日本の歴史は教えないという時代に小学校を卒業したが、中学校の校舎のすぐ横には鉄条網が張られ、オフリミットの札が下がっていて、向こう側へ入ったら命の保証は無いという。この事実自体が現代史の一片だ。米軍の接収地はやがて東京学芸大学の敷地となった次第。
 小学校六年生の時、教室内に置かれている担任の先生用の机の上には「民主主義(上)」と「民主主義(下)」の二巻が置いてあり、休み時間に少しずつ読んでいた。上巻の方は大変興味深かった。先生方は終戦により、今までの考え方にかわって民主主義を学んでいらっしゃるのだと感じた。帰国後、真っ先に母が購入した本が六法全書であったことを思うと、大人は大変なのだなぁと感じた。
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Author:東京法律事務所憲法9条の会

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